いつの頃からか全国にある一宮の神社を中心に全国を旅すると題して、あちこちを廻るようになった。一宮とは、平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に記載された諸国の中で最も有力な神社のことである。例えば、武蔵国なら埼玉の氷川神社、相模国なら寒川神社などなど。神社が好きな人は、この諸国一宮を巡拝し御朱印を集める者も多くいる。
私の場合はそこまで明確なテーマを持って廻っている訳ではないけれど、諸国一宮とお気に入りの神社、それに風光明媚な景色や自然、ご当地グルメを堪能したりと自由で気ままなひとり旅を愉しんでいる。そして今回は青森県弘前市の一宮岩木山神社を参拝し、秋田のなまはげゆかりの地を巡るひとり旅である。
まず、弘前の岩木山が大本命である。綺麗な円錐形をした岩木山は標高1,625mあり、津軽富士とも呼ばれている。頂上からの眺めを一眼見ようと多くの人が訪れる日本百名山の1つである。かくいう私も当初の旅程に入れたのだけど、登山経験の浅い私にとって服装や登山靴を揃えるのは容易ではなく、当日の天気も芳しくないことから今回は遠慮することにした。
第一目的は岩木山神社の楼門である。当社の巨大な楼門を初めて本で見て一目惚れしたのがきっかけで、是非ともこの目で拝み写真を撮りたいと思うようになった。私にとって岩木山神社の楼門は、いわばこの旅のメインなのである。
社頭から楼門まで緩やかな傾斜が続き、中央の石畳と周辺の草木が美しい。
きっちりと組まれていない石畳に神社の歴史を感じるし、それを取り巻く周囲の緑が無味乾燥な石に潤いを与えているようにすら感じる。昔から多くの人がここを歩いてきたことが、石の表面の艶ややかさで分かる。まだ見ぬ神社が歩んできた歴史と私がここまで来るまでの道程を重ねるようにゆっくりと歩いた。
丹塗り一色で彩られた大きな楼門は遠く離れていてもすぐ分かる。
高さ17.8mと壮大な造りはさる事ながら、普通の楼門とは全く違う印象を受けるのはなぜだろう。ぱっと見て違和感を感じるのは、二層部分が大きく見えること。これは単に屋根の張り出しが少ないから大きく見えているだけなのか、それともやはり他と比べて二層階を広めに造ったのかは謎だが、丹塗りのだだっ広い箱をドンっと設置したような印象である。おまけに屋根を支える四隅の柱が妙だ。
この柱は建築構造上必要なものなのか。とにもかくにも通例で挙げられるような楼門ではないアンバランスな形態が妙に私の心を揺さぶるのである。この楼門がなければ私はここを訪れなかっただろうし、まして一宮でなければ当社の存在を知る由もなかっただろう。そう思うと、この神社に行きたいと心から望むのは、私の中にある性情とどこか合致するところがあるんだと思う。
禊所や古めかしい茅葺の社務所、石垣の狛犬などを写真に収めつつも、楼門の周囲をくまなく散策した。もし監視カメラがあれば画面上を何度も行き来し、3分後に再び現れるように私は映し出されるだろう。それだけあらゆる角度から撮影し、念願の場所へ訪問できた喜びをひとり悦に浸っている。
中門を潜った先には大きな拝殿がある。当日の天候は曇りとあって、丹塗りの建物がよけいに古朴に感じられた。こういう自ら接近できる建物なら撮影を取り逃すことはないが、距離があるがために最も重要な本殿を忘れてしまうことがたまにある。当社の本殿も近づいて撮影できず、拝殿から先奥門と瑞垣に巡らされた中にあって遠目でわずかに存在を確認できる程度だった。
さて、ひとり旅にトラブルはつきものである。
今回は携帯の充電バッテリーを忘れたことで、岩木山神社の近くに鎮座する高照神社へ参拝できなかった。高照神社は弘前藩の四代藩主信政を祀る神社で岩木山神社と同じく国の重要文化財に指定された建築が8棟もある。重文の建築が好きな私にとっては、一目見ておきたかったというのが本音だが、前にも言うように旅にトラブルはつきものであるし、天候不良で思い通りにいかないときもある。加えて一年で最も暑いこの時季(7月〜8月)に徒歩2Kの道のりは辛いものだ。
私は周辺にコンセントがありそうなカフェやコンビニを探したが、2時間に1本しかバスがない田舎であるからそうあるはずもなく、結局高照神社を諦め、弘前市街まで戻ってから充電することにした。
まだ日は高く、焦るものではない。今日一日、ここだけはどうしても行きたい目的地を決め、そこに行くことができただけでもう満足なのである。大体何があっても余裕があるよう旅程も組んでいる。焦る旅ではない。私は津軽名物ごへい餅を片手にベンチに腰掛け、1時間後に来たるバスを待った。これが旅の醍醐味なのだ。そう自ら言い聞かせた。