信濃国二宮「矢彦神社」と「小野神社」は一見すると同じ社地(境内)でありながら、全く別の神社である。矢彦は壮大な神楽殿と神木が存在感を放つ一方、小野は傾斜を生かした庭園が印象に残る。両社とも御柱を有し、拝殿等の型は違えど同じ規模であることが、それぞれが単体で存在することを示しているかのように感じさせる。その隔たりは「社地境界標」と刻された小さな石標があるだけなので、多くの人は両社の境を知らずに往来している。
それはともかくとして、一つの社地に全く別の神社が存立するのは珍しい。その理由は鎮座地である小野郷が二つに分断したからであるが、そもそも小野神社に二つの派閥が生まれたというのも一因としてあるようだ。この事象は村集団ごと社殿はもちろん祭事まで二系統に別れたそうだが、その後別個に存立し、行政区分まで分かつなどとは当時は知る由もなかった。
戦国期になると小野村と神社をめぐる領地争いが勃発。その後太閤秀吉が矢彦神社の南600M程の所を流れる唐沢川で小野郷を分割。これに付随して該当する神域も分割した。この事象は祠まで半分にするという徹底ぶりだったが、何事も綺麗に折半とはいかず、寛文6(1666)年に若宮(八幡社)の森立ちをめぐって問題が起き、やがて境界論争が生まれた。最終的には、北小野(小野神社)の敗訴ということで落ち着いたものの、両社が分割された天正19(1591)から実に350年もの歳月を経て、ここに明確な境界が示されたのである。
本件について、私が当社を訪問したときは、まだ浅はかな知識しか持ち合わせていなかったために、小野側の資料館の者と一言二言交わしただけで終わってしまった。今思えばせっかくの機会にもったいなかったと悔いも残るが、わざわざ両社ともにトイレを設置するぐらいだから、今なおわだかまりがあるのか、詳細を訊けぬ雰囲気もあったのである。トイレぐらい一箇所で十分だろというツッコミは私だけではあるまい。
それにしても一山歩いた訳でもないのに大層疲れた。見兼ねた氏子が椅子を持ってきたので、頂いた梅茶とお菓子で一息ついた。
朝一に小野側で高らかな声が聞こえてきたので覗いてみたが、暫くして散会したのでその場を後にしたのだけれど、2時間ほどするとまた氏子中が集まってきて、遂にはテレビの取材までお見えである。訊くと今日は注連掛祭(しめかけさい)という神事があるそうな。なるほど、朝の一声は神前への報告出発式だったのか。
「今日はいいところに来ましたね。資料館もやってますから、どうぞ見ていって下さい」と氏子は言う。「いやあ、どうにも疲れてしまって、本当はお邪魔したいんですが、とても素敵なお宮だったので歩き回って疲れてしまいました。この後は『乙事諏訪神社』へ行く予定だったんですが、もうお腹いっぱいですよ」私は腹をぽんぽんやって、満悦の表情で応えた。
この旅は東京ー長野と近距離ながら実に有意義な旅だった。月山へ行く予定が敢えなく変更となったにもかかわらず、別所温泉で食した「馬肉うどん」は中々の美味だったし、「塩野神社」の異世界へ誘われるかの如き景観には感激したもんだ。マダニに噛まれた件は今後の教訓である。丁重な振る舞いが嬉しかった矢彦神社の御朱印に、小野神社の社地境界論争に至っては、初めて「都立中央図書館」にまで足を運んでの調査となり、興味関心が渾々と出て愉しくて仕様がなかった。
一般に県指定等文化財に用いられる「〇〇県指定文化財」なる名称は、長野県では独自に「県宝」と表記している。この毛筆で書かれた「県宝標」が、実に堂々として見えるので、いざ参らんと入域する私をドキドキさせたものだった。
まあ、そんなこんな尽きぬもので、ここいらで筆を置いて、そろそろ次の旅にでも行こうと思う。