杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

岡山ひとり旅vol.1 高梁市「本山山神社」

備中高梁駅 近くには山田方谷の碑もある

岡山への訪問を何がきっかけで決めたのかはまったく思い出せないが、岡山県内の神社をGoogleマップを頼りにしきりに探し回ったのははっきり憶えている。日本最大級の石製鳥居がある県北の「蔀戸神社(かやべ)」やアクセス困難な自然豊かな神社。それに瀬戸大橋が間近で望める絶景の神社や一宮など気になる所はあったが、私が最もそそられたのは神社よりむしろノスタルジーを感じる昔の学校や、江戸後期に活躍した儒学者山田方谷(やまだほうこく)であった。(但し本業が神社ゆえに記事のタイトルは社名である)

観光バスでも駐車可能だが、どういうルートでやってきたのか

岡山市街から車で1時間半、最寄りの高梁市街からでも40分ほど奥地にある吹屋地区に「旧吹屋小学校」という古い木造校舎の学校がある。私はこの校舎を見たくて遠路遥々ここまで来たのだ。倉敷までは高速バスで、次いで高梁までは電車を利用し、高梁から吹屋地区まではバスで約1時間を要した。時間だけ聞くと大したことないと思うかもしれないが、山の中の離合できないほど狭い道をくねくね通り、ルートによっては岩盤を手で荒削りしたようなトンネル(洞窟?)があったりと、アクセスは決して容易ではない。

江戸から明治期に建てられた吹屋の家々

標高550メートルに位置する吹屋の町並みは山の中から忽然と姿を現す。赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された家々が軒を連ねているので、初めて見るものは「ここは何なのか?」と尋ねることだろう。吹屋は江戸から明治にかけて鉱山の町として栄え、特に江戸末期からは、ベンガラの国内随一の産地として名を馳せた。驚嘆すべきはベンガラで築いた豪商が石州から腕のいい宮大工を呼び寄せ、町の意匠を統一させたところ。言わば「都市デザイン」を行ったのである。そしてそれが現代までほぼそのまま残っている。昭和40年代にベンガラ産業は幕を下ろしたが、残った住民は町並みに歴史的・文化的価値があることに気付き、昭和52(1977)年国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され今に至る。

改修された旧吹屋小学校 校舎の手前も綺麗に整備された

さて、そんな華やかなる町に学校が建てられたのは明治33(1900)年のことで、まず東西校舎が、次いで同42(1909)年に本館が建築された。大正7(1918)年には最大369名もの生徒が在籍していたというから驚きである。きっと教室も廊下も多くの生徒で一杯だったろう。

三間廊下のトラスと天井が二重になった講堂(当時はアート展開催中)

この校舎は実際に内部を見学できる。トラス橋を思わすトラスを用いた小屋組みの三間廊下に、二重折り上げ天井の講堂。講堂ゆえに絢爛豪華な模様などはないが、二条城でも用いられている二重折り上げ天井が格式の高さを窺わせるものとなっている。そして部屋の隅には木製の古いオルガン。生徒の視線の先には、これまた年季を感じる木製の教壇があった。木の軋む音とともにノスタルジーを感じる空間である。

プロジェクションマッピングなんて初めて見た

旧吹屋小学校は平成27(2015)年から保存修理工事に着手し、今年(2022年)4月に再公開となった。岡山の木造校舎を調べてたまたま目についた学校が、今年再公開されたばかりで、なおかつ校舎のライトアップとは珍しい。実を言うと私はこれが発端となって、陸の孤島(言い過ぎか)である吹屋へ一泊する旅程を組んだのである。

人のいないしんとした吹屋の町(町並みも華やかなライトで彩られているのかと期待したが)

そのライトアップはただ単に光を当てただけのものではなく、在りし日に横浜や東京駅で見られたプロジェクションマッピングという手法で実施された。失礼ながら、こんな山中の人の乏しい田舎にプロジェクションマッピングとは、ある意味貴重である。もっとも現地で目にするまで知らなかったわけだけど、山中を歩いていたら祭り囃子が聞こえてきたので私はその実情を知ることとなった。山中の夜は自分がどこを歩いているのかまったく分からないほどの闇夜であったが、最大光量1300ルーメンものライトを携行は我ながら賢明だったと、また最近の旅では最も安心できた出来事であった。それと共に私はいつから都会人となってしまったのか地方とのギャップを痛いほどに感じたものだった。そして昔話などに出てくる世の奇怪な現象やあやかしなどは、この闇がもたらしているのだと、そう思うほどに夜道は真っ暗だった。

夜の吹屋の町を散策して戻ってきたら通常のライトアップへ変わっていた

少し話は逸れたが、プロジェクションマッピングは青や赤を用いたライトを校舎に投影させ、吹屋の日本遺産をクイズ形式で紹介する内容であった。この投影方法は全国でも行われているのだろうか。存在自体は知っていたが、実際初めて目にすると迫ってくるような迫力があって面白い。全国の神社などでもやっているのかちょっと調べてみたいものである。

日中のコテージ 街灯なんて有って無いようなもの

コテージで一泊閑話休題

 

夜が開けるのを待ってようやく参拝した早朝の山神社

第一義である吹屋の学校を訪れたことで旅の目的の一つは達成されたわけだが、旅の余韻でも良いので神社に行きたいと「本山山神社」へ出向いた。境内は高台といえども、屋根の上より少し高いぐらいの場所だから、平凡な山と対峙するか、せいぜい空の広さを知るぐらいなものだ。吹屋の街並みを紹介するポスターにあるようなフォトジェニックな景観はここでは期待できない。遠くを望んだり、社殿と向き合ったり、境内をあちこち歩き回ると、草の上の朝露が靴に纏い、足元から冷えてきた。午前6時、高梁市街の気温は17度だが、ここはきっともっと低いだろう。

まだ暗さの残る境内

「本山山神社(さんじん)」は明和2〜7年(1700年代)に創建と伝えられ、神社史から見れば比較的新しい社である。境内に似た名称で「山神社跡」と記された堂があり、こちらは江戸中期の享保年間(1716〜1735)に地元の銅山経営者である大塚家が勧請した社である。ベンガラの町らしく、銅山の守護神・金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀っていたが、銅山の衰退や閉山に伴い町は活気を失い、御神体は近所の「高草八幡神社」へ遷されている。

玉垣と神額の上に三菱のマークが見られる

ちなみに、明治6(1873)年以降は、三菱商会が銅山を経営したことから、同社の鳥居や玉垣には三菱のマークが刻され、今もその刻印を見ることができる。

 

さて、バスの時間までもう少しあるので御神体が遷されたという「高草八幡神社」へ行ってみよう。