石垣島へ上陸する

遠くに集落はあれど辺りは原が広がって、所々に椰子のような高い木が見える。少なくとも那覇のような賑やかさはなく、滑走路でひらひらそよぐ雑草がすべてを物語っているよう。着陸前にはきらきらした幻想を抱いても、現実はもっと地味なもので、那覇の空港と比べればずっと小さく、ともすれば寂しささえ感じてしまう。そんな思いを胸に石垣市内へ向かうバスに乗った。
それにしても危ないところだった。サックをお供に車内に立った私はふうと息をついた。実は公津の杜から成田空港へ向かう際、成田行きとは異なる路線の列車に乗ってしまったのである。

備忘録として書いておくが、公津の杜から乗車した場合、①成田空港行き(京成本線)②芝山千代田行き(京成本線、京成東成田線、芝山鉄道へ接続)③京成成田行き(京成本線)がある。成田空港へは①へ乗車するのが正解で、間違っても③は乗り換えで向かうこともできよう。しかしながら、あろうことか空港を通らぬ②に乗車したのだ。
結果から言えば、途中の東成田から歩いて行けたから良かったけども、もし気づくのが遅れ、終点の芝山まで行っていたらフライトに間に合ったかどうか分からない。もし東成田で気付いたとしても、地下のダンジョンを駆け、電車で引き返すという道を選んでいたら…。大型連休の初日でもあり、保安検査の混雑なども考えると当時はとても気が気でなかった。

そんなこんなで東京から2000キロ、沖縄島から400キロ離れた石垣島へ到着。日本列島の最南西端の島である。子どものようだが率直に、私はスマホでマップを開き、今居る自分の場所を確認してはひとり悦に浸った。石垣島はもはや沖縄へ行くより台湾の方が近いぐらいだ。車窓から眺めれば、コンクリート造りの人家。それに宮良川の先、マングローブも見える。まだバスに乗ったばかりというに、これから何があろうかと愉しみで仕様がない。期待を胸に私は終点のバスターミナルへ着いた。
博物館とみる八重山の歴史

バスターミナルの近くには貝類標本と書かれた土産物屋がある。どうにも気になるが、まずは道すがら計画した飲食店で八重山そばをぺろりとやって、初日第一の目的である「石垣市立八重山博物館」を目指した。おそらく八重山の歴史系博物館の中では代表格になろう当館は、昭和47(1972)年に開館し、昔の生活を垣間見ることのできる民具や祭祀道具、古文書や美術・工芸品を展示している。その外観は少しくすんだ鉄筋コンクリート。建物内部の内装や展示ケース、紙粘土で製作された古代人の生活といった展示などは、本土の地方にある民俗資料館さながらに古さを感じ、展示史料の数も思いのほか少ない。だがまさに今これから島旅が始まるという前段階に、当地の歴史を俯瞰できたのは良かったのかも知れぬ。興味深い事柄を幾つかメモしておこう。
まず八重山諸島は石垣島や西表島(いりおもて)、竹富島(たけとみ)や波照間島(はてるま)などの島々を指し、宮古島、伊良部島(いらぶ)、多良間島(たらま)は含まれないことを最初に書いておく。とはいえ沖縄島以南を南琉球圏と呼ぶように、同じ文化を共有しているため八重山・宮古をセットに見る向きがある。ちなみに八重山・宮古などの島々を先島諸島とも呼ぶが、これは「沖縄島からみてもっと先」という意味なので、八重山・宮古の人間は使わないようだ。
さて、そんな八重山には日本本土や北琉球圏(沖縄島)とも異なる独自の文化があり、長く外部勢力に翻弄された歴史があった。その歴史のはじまりを博物館では考古学より伝えている。2010(平成22)年、新石垣島空港の建設工事に伴う白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけつ)の調査で発見された人骨は、今からおよそ1万5000年〜2万7000年前の人骨だと判明した。これまで八重山に人が住み始めたのは約4000年前の下田原(しもたばる)期と考えられてきたが、それが更に2万年以上も遡ることとなり、白保竿根田原洞穴の発見は、八重山における今世紀最大の発見といわれている。しかし、その後下田原期の人々が住み着くまでの1万年以上もの間、人が住んでいた遺跡は見つかっていない。
博物館の展示では、時代の移り変わりを土器を中心に語っている。八重山で土器を使う人々が住み始めるのは、今から約4000年前のこと。下田原式土器を持った下田原人(しもたばるじん)が南方から渡ってきて八重山に住み着いたと考えられている。柱を2本立てた構造物に木の葉や草で屋根を葺いた素朴な家に住み、魚介類やイノシシなどを採っては鍋形の土器で調理していたようだ。そんな生活が500年ほど続いたある日、下田原人は突如として八重山から姿を消してしまった。その原因は分からないけども、一説には大津波が襲来したからとも囁かれている。

まるで新芽すら芽生えぬように1500年ほど空白を齎したが、その後来たる時代はあたかも時代を遡るかの如く土器を使わない時代であった。人々は石斧(せきふ)やシャコガイで作った貝斧(ばいふ)、土器の代わりにホラガイを煮沸器として使ったり、骨製品といった道具を使って生活した。また唐代の通貨・開元通宝がまとまって出土しており、近隣諸国と何らかの接触ないし交流があったことを示している。焼いた石の上に食べ物を置いて石蒸しにする焼石調理法を用いた点も当代の特徴として見るが、ここまでを俯瞰して、土器の時代から無土器への文化の展開は特殊なもので、日本列島では八重山・宮古に限定されるものである。無土器期は1000年以上、12世紀の初めごろまで続き、再び土器の時代へと移っていった。
これまで台湾や中国南部、フィリピン、太平洋の島々と関連する南方由来の文化圏だった八重山は12世紀、北方からの影響を受け、再び土器を作り始めた。その中でも竹富島新里村東遺跡の人々は土器作りの先駆けで、当遺跡より出土した新里村式土器から、新里村期と呼んでいる。この土器は口縁部に四つの把手を付けた鍋形土器で、長崎産の滑石(かっせき)製石鍋を模倣したものである。この遺跡に関わらず中国産白磁碗(はくじわん)、長崎産滑石製石鍋、徳之島産カムィヤキ壺の3点セットは北から、土器作りの技法は沖縄本島から八重山に入ってきたと考えられている。
中世には稲・麦・粟などの備蓄できる穀物を作るようになったほか、中国陶磁器が八重山に大量に入ってきたのを契機に沖縄人や北方の民が八重山へと居を移した。それが故にほとんどの島で人口が増え、集落も拡大したという。当時の面影が今なおジャングルに遺されている。集落内には道路がなく、屋敷は不整形で、大小さまざまな屋敷が細胞状につながっており、石垣を狭く切った出入り口で屋敷から屋敷へと行き来した。さらに崖の上に大規模な石垣を設けて集落全体を囲んでいるものが多く、集落の防御性が強い。このような遺跡は沖縄島ではまったく知られておらず、この地域独特の集落形態であった。
ところで、集落が形成されると、勢力を持った者が現れ争いを始めるのは歴史上の常なるもの。ここ八重山にも戦の時代があった。石垣島平久保半島における加那按司(カナアジ)の支配や、その加那按司を慶来慶田城用緒(ケライケダグスクヨウチョ)が討伐し住民を解放した一件などもあるが、中でも八重山史を揺るがしたオヤケアカハチ事件は有名である。
遠弥計赤蜂堀川原(オヤケアカハチホンガワラ)通称アカハチは、琉球王府の歴史書によると、王府への上納をせず、既に配下にあった宮古へ攻め入ろうとするなど、八重山や王国の秩序を乱したとされている。1500(明応9)年、宮古島で宮古の軍勢と合流した王府軍はアカハチの頑強な抵抗に苦戦するも、遂に捉えることに成功。この事件により八重山は琉球王国の支配下に置かれることとなったのである。もっともこの出来事は勝利した王府によって編纂されたものであって、負けた八重山側からの言い分は消されている。琉球から見れば悪党でも八重山からすれば英雄になろうものだが…、近年八重山目線を含んだ展示が国立歴史民俗博物館であった。タイトルを「ー八重山・宮古・奄美からみた中世ー海の帝国琉球」という。なるほど、琉球を「海の帝国」とは言い得て妙、面白い形容である。
それはともかく、アカハチ事件以降琉球王国の勢いは盛んになる一方で、八重山では集落が廃墟と化した。時は流れ1609(慶長14)年、薩摩藩は琉球へ侵攻し、琉球は王国としての形態を保ちながらも薩摩の支配下となった。ここから琉球の近世社会が始まり、八重山もその影響下に置かれるようになる。
琉球王府は支配を強化するため王府から役人を送り、政治の最高責任者にしたり、財政強化のため男女が均等に税を負担する人頭税(にんとうぜい)制度をはじめた。人頭税は米を基本として、布をはじめ粟や麦などの農作物、山や海に自然にある産物から労働による代納も可能であったが、上納高全体では布による上納分が過半を占めており、その仕事は女性に集中していたことから過酷であったという。これが実に明治まで250年以上も続き、八重山史では「人頭税の時代」とも称されるほどであった。王府はまた生産を強化するために、人口の多い島から未開拓地へ農民を強制的に移動させたり、新しい村を作ったりしたが、農民は過重な課税のうえ移動先で風土病に罹るなど苦しい思いをさせられた。これに追い打ちを掛けるかの如く、1771(明和8)年には大地震が発生。津波も押し寄せ当時の人口のおよそ3分の1が亡くなった。農作物は減少して飢饉となり、その上疫病が流行。人頭税は減免されるも人々は苦しい生活を余儀なくされた。この明和大津波と呼ばれる津波は、特に石垣島で大きな爪痕をのこし、今なお島民の防災意識を高めている。
時代が明治になると琉球王国は琉球藩となり、その後沖縄県が設置された。八重山でも蔵元(首里王府が八重山を統治するための出先機関)政治が混乱し、士族階層の抵抗が続いた。廃藩置県後は天皇制を中心とする皇民化教育が進められ、特に日清戦争の後急速に日本化が進んだ。日本の神社に類する御嶽に鳥居が設置されたのもこの頃だろう。
最後に八重山・宮古の分島問題について少し書いておく。明治政府による琉球処分は清国との間で外交問題に発展した。清国は琉球処分に関して日本政府が一方的に清国への進貢を禁止したことに抗議するも、日本政府は「日本国内の問題だ」として取り合わず交渉は決裂。そんな中、アメリカの前大統領グラントから「琉球問題で譲歩して、清国の資源に目をつけてはどうか」との進言を受け、日本政府はこれに基づき、八重山・宮古を清国に譲る代わりに、清国内の通商権を欧米諸国並みにするよう日清修好条約の改定を提案した。つまるところ、八重山・宮古をエサにして中国全土の有利な通商権を手に入れようとしたのである。この提案に対し清国は、奄美大島は日本に、八重山・宮古は清国に属させ、中央の沖縄をこれまで通り王国として存続させるという三分割案を提案。しかしながら、ロシアとの間で国境問題を抱えていた清国は、この問題の解決を急ぐため日本側の二分割案(宮古・八重山を清国へ)に同意し、調印することとなった。ところが、明治14(1881)年、北京で両国の代表が立ち合い、まさに今正式に八重山・宮古が清国へ引き渡される直前になって清国が調印を伸ばした(事実上の拒否)ため、条約の調印は流れたという。

これまで八重山の歴史を見てきたが、途中から夢中になってしまい、地元の教科書的な書物を買い求めてまで書いてしまった。とはいえ、博物館から八重山の歩みを通して学ぶことはできるし、特に民俗に関しては実物を直接見れたのは良かったように思う。事前に学習して知っていた登野城(とのしろ)のアンガマ面。いかにも南方を彷彿させる弥勒(ミルク)の面。棺を運ぶガンダラゴーに特異なヌーヤ墓。洗い終わった遺骨(洗骨)を入れる厨子甕(ずしがめ)など実に興味深い。これら諸々、また外部勢力に翻弄されつつ歩んだ歴史、言葉や文化など、八重山は同じ沖縄でも沖縄島とは多分に異なるところがあり、私はとても同じ沖縄として見ることができない。そんな下地を得た中で、これから実際に町へ繰り出し、あるゆる事物に私は何を想うだろうか。
八重山の御嶽(オン)

さて、今更なのだが、私は当館への訪問にあたり、歴史以上に目的とするものがあった。それは八重山の御嶽(オン)に関する聞き取り調査である。ウェブ界隈での情報によれば、いかんせん御嶽への立ち入りが禁じられている場所が多いらしい。だからこそ、実際に訪問する前に現地博物館にてその実情を聞いてから活動したいという思惑があった。
だが学芸員の立場上言いづらいからか、はたまた御嶽の場所によっても異なるからか明確な回答は得られず。ただ「博物館の近くにある『天川御嶽(あまかわうたき)』には境内に遊具があるので問題ないのでは…」とのこと。ちなみに御嶽の深部にあるイビへの立ち入りは禁止で、この拙問には即答であった。また御嶽と神社の相違については性格が異なるともご教示頂いた。
少し判然としないところはあるが、神社でいう本殿や神域に類するイビはともかくとして、可能なら拝殿のある前庭に入ってみたいのは正直なところ。なので立ち入り禁止の看板があるところは仕方がないとして、もし無くて問題なさそうなら入域しようと思う。だが現地民から退くよう言われたらこれに従うこととした。

かくして石垣島来島初の御嶽として「天川御嶽」を目指した。御嶽は一般的には「うたき」と読むが、八重山では「オン」とか「ワン」あるいは「ウガン」といった呼び方があるらしい。私は事前に調べた上で「オン」をよく聞いていたから、先の博物館で聞き取りする際にも言葉を選びつオン名を用いたのだけれど、学芸員から「うたきですか?」と逆に質問されてしまった。研究者としての一面もある学芸員故にうたき名を用いたのか、あるいは八重山でも一般的な呼称なのかは分からない。とはいえ天川御嶽の前にある信号機には「Amakawa -utaki Sacred Site」とあるので普通に「うたき」で良いのだろう。そう思って案内板を見れば「アーマーオン」との名が…。

天川御嶽は市街の道路に面しており、側から観ると緑は少ない。前庭には遊具があり、祭礼用と思しき舞台も目に付く。何より近年建て替えられた拝殿に新しさも見え、町中にある開かれた御嶽との印象を受けた。ところが、拝殿の裏に回ると意外にも緑が多いことに気付かされる。自然な風合いの珊瑚礁石灰岩を組んで、ゲートはアーチ状に造られている。この先は御嶽の中で最も神聖な場所、イビである。イビは祈りを捧げる神司(つかさ)しか入れない。だが清清とした空間とは裏腹に陰湿なほど茂っており、周囲が開放的で明るければ明るいほど暗くディープな印象を受ける。あくまでも手を加えず自然をメインとした空間であった。

それはともかくとして、天川御嶽はかつて沖縄島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)の一つで、天川の他には美崎(ミシャギ)・宮鳥(メートゥル)・長崎(ナースク)・糸数(イトゥカズ)・名蔵(ノーラ)・崎枝(サキダ)がある旨を由緒で知った。当初私の御嶽巡りに具体的な計画はなく、石垣市街の御嶽を行けるだけ行くというざっくりしたものだったが、この七嶽の存在を知り急遽七嶽訪問へ変更。私はすぐさまマップを開き、七嶽の場所にピンを立てた。調べてみると、名蔵と崎枝はレンタサイクルでは余りに遠いと知って、両者は後日レンタカーで向かうなど旅程を改めた。

「美崎(ミシャギ)御嶽」は当初入り口が分からず、住宅の合間にある雑草を踏みながら入域した。先ほどの天川と比べると更に緑が多く、もはやジャングルとでも言いたくなるほど密生し、枝葉の一葉すら色濃くてかる。その上実に静寂で周囲をひらひらオオゴマダラが翔んでいるもんだから、どこか桃源郷にでも居るのかと錯覚してしまう。それに密林と同居する拝殿も年相応にくたびれて、私はまだ御嶽のうの字も知らぬのに、これが御嶽と酔いしれた。

美崎御嶽は尚真王の世、石垣市登野城(とのしろ)の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。神名は大美崎トウハ。イベ名は浦掛ノ神ガナシという。また1500年、オヤケアカハチの乱の際、首里王府が派遣した兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥(まいつば)が篭ったところと謂れている。

鳥居の横には琉球政府時代に建てられた石柱がある。これによると、当時は重要文化財に指定されていたようだ。

自転車で数分、御嶽をハシゴする。少し戻りて「糸数(イトゥカズ)御嶽」なる場所に着いた。ここは人目があるからか、何となく入ってはいけないような気がして鳥居を潜らず。遠目からカメラを構えるだけにとどめた。拝殿の手前こそまばらでも、奥の方は暗く、陰湿な雰囲気が漂っている。当嶽は確か由緒が設置されておらず、文献を開いても判然としない。しかしここも七嶽の一つで、航海の安全を祈願する御嶽であることは天川での由緒板より明らかである。

幾つか廻ったところで海岸沿いにあるマンタ公園で休息を取る。緑の芝生に設置されたこれはサバニだろうか。舟形のベンチに腰掛けスマホを充電。回復するまで八重山博物館で手にした紀要をめくった。石垣市出身の民俗学者・喜舎場永珣(きしゃばえいじゅん)について記された書で、彼の生い立ちを読みつつ、当地の民俗に想いを馳せた。雑事に追われず、遠い遠い遠方の地で、南方の風を感じながら知識欲を満たす私。
なんと幸せなことだろうか…。
どれほど経ったか、スマホも少しは回復したかしらん。
厚い雲から小粒も落ちてきた。そろそろ頃合いか。
私はサバニから下り、再び自転車に跨った。

御嶽は常若のような瑞々しさより古代の祭祀場に近しい雰囲気がある
御嶽は神社と同じく祈りの場でありながら、地域のコミュニティのようにも見える。長崎御嶽も神聖さとは裏腹に、側に遊具が設置され、ある種開放された印象を受けた。その傍ら御嶽を囲う石垣には波のように高低差が付けられ、一部にはイビ前の門の如く穴が空いている。これは古の時代に築かれた造形なのか、はたまた公園の区画として後から造られたのかは分からないけれど、この不整斉さがどうにも奇妙に感じた。また他の御嶽にも言えるのだが、神社と比べて非常に緑が濃く映る。当嶽で言えば、何も密生とは言わないのにどうしてこう深い森に見えるのか。日中でも日の光が届かず、広く影を落としている。ともすれば陰湿な感じさえ受けるが、これには神社とは異なる御嶽の植生が影響しているのだろうと思う。

1910年には石垣小学校建設のため、現在の規模になったという
石垣市街をあまりに離れると帰りが大変なので、宿への道すがら宮鳥御嶽を訪れた。ここなら立ち入りできるだろう。御嶽に隣接して幼稚園があり、敷地に車が停められている。おまけに石垣市の由緒が立っているもんだから、御嶽の立ち入りを気にする私にとっては気楽に入りやすかった。宮鳥は昔、石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツと平川(ビサガー)カワラ、マダネマシズの三兄弟妹が御嶽として拝み始めると作物が実ったので、人々は彼らを慕い、次第に村ができたという。これが後の石垣・登野城両村へ発展したと謂れている。原典は同じく『琉球国由来記』(1713年)だが、別の逸話なのか喧嘩する兄弟妹を宥めた謂れもあるが、詳細は分からない。

御嶽は神社と比べてあっさりしている。神社のように広くなく、特に付属社殿を設けることもない。簡素な景観だから写真も数枚撮るだけで終わる。当然御朱印など商業じみたものもないので、わずか2時間ほどで5ヶ所も廻ってしまった。

その中から素泊まりが安いマルトモ荘を選んだ。
さて、他は後日訪問することにして、八重山局周辺のポートでレンタサイクルを返却し、徒歩でマルトモ荘へ向かった。1階に居酒屋が入り、2階が宿部屋なるこの民宿は、外観や廊下はアパートそのものでも中はちょっとしたビジネスホテル並みである。2人は寝れそうなキングベッドに冷蔵庫。大きな座卓にテレビまで付いて、ユニットバスも清潔感があって心地よい。眼下には広大な芝生に新しめのバスケコートがあり、快活と興じる若者の、そんな些細な一景すら島の活気のように映った。
「幸せな旅だ。これからよろしく!」
私はにんまりベッドへダイブした。