杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

北海道ひとり旅vol.2 旭川市「上川神社」

近文(ちかぶみ)駅

札幌より北へ向かい、岩見沢で乗り換えては近文(ちかぶみ)という駅で下車した。近文とはアイヌ語の「チカプニ」から来ているようで、鳥が集まるところという意味らしい。車内に入る風の冷たさは北へ行くほどに増して、ここ近文を降りてからは浜風のような寒風が吹き荒んでいる。札幌と同じ格好ではとても寒い。

 

あえて味噌で勝負したという山崎商店の味噌ラーメンを食す

とにもかくにも昼を摂らねばと車中で目星を付けていたラーメン屋へ入った。旭川ラーメンは醤油ベースらしいが、私は醤油より味噌派なので味噌ラーメン専門店に入ることにした。このラーメン屋も私と同じように癖があり、旭川が醤油というのは知っているけども、あえて味噌で勝負したとのこと。専門というだけあって味噌が実にいい塩梅で、大好きなネギも山盛りに腹を満たした。

 

吹き荒む寒風と曇天が冬らしいように感じるが、冬はまだまだこれからである。あちらにもこちらにもラーメンと書かれた看板を引っ提げて、旭川はやはりラーメンの町だとか実感した。ひび割れた道路にさほど古くも新しくもない人家が大通り沿いにまばらにあって、その向こうに見える農地は涯なく広がる。どこか開拓前の残り香が未だにあるようにすら思える景観で、瀬戸内でいえば高度経済成長期に干拓された土地に似たものを感じる。もっともこれは私が降りた近文での一景であって、旭川の駅前は大層綺麗な景観である。

 

旭川にメスが入ったのは他の町より遅いようだが、一度拓かれるやあれよあれよという間に都市化が進んだ。移住を余儀なくされたアイヌは「近文給与予定地」へ移ったけども、後に第七師団が隣接したために土地が急騰し、土地問題が起こった。これにまたも移住の危機があったが、和人との協力もあり旭川にとどまることができたという。

 

公設の「北海道博物館」とも比較したく私設の「アイヌ記念館」を訪問

然れども、この事件以降、アイヌが管理できる土地は5分の1に減らされ、残りは共有地として町が管理することになった。住み慣れた土地を追われ、狩猟や漁労は禁止。農業に適さぬ土地で農業を強いられ宗教、言語、生活習慣も禁止され和人による同化政策が行われた。和人がやってくるとアイヌは奇異な目で見られ、見せ物のように踊りをさせられたりもしたという。そういう有り様を嘆き、アイヌ文化を正しく理解してもらおうと建てられたのが「アイヌ博物館」(現、川村カ子トアイヌ記念館)であった。

 

近年改築されたとあって古さを感じさせない外観であった

大正5(1916)年に開館した当館は、アイヌの私設博物館として最古でありながらログハウスのような外観をしており、古めかしい印象はまったくない。重い扉を開けると、想像より小さな展示室にアイヌの人が実際に使っていた日用品が展示してある。付近には長になる条件とか、男女の仕事の役割や狩猟についてなど、アイヌの暮らしに関するパネルやキャプションが置かれている。

 

実際に使われていた日用品が展示されている

見たところ、アイヌは自然とともに生きる民族らしい。動物は神からの贈り物だから無闇に獲ってはならぬとか、狩猟場所も決まっていたようだ。獲物の中でも特に熊を神聖視し、冬眠中に生まれた子グマは、山の神から授けられた賓客として家の女主人は自分の乳を与え我が子のように可愛がるという。その子グマが2才になると、マイナス30度にもなる冬の日に神の世界へ送るイヨマンテの儀式が行われる。神を喜ばせるための饗宴は三日三晩続き、それがアイヌにとって冬を乗り切るための力になるのだそうな。

 

木彫りの熊の数々

2階には木彫りの熊がずらりと置いてある。オーソドックスに鮭を咥えたものや、鮭を担ぐもの。鮭を奪い合うものに獰猛な姿などバリエーション豊かに形作られている。これを見るまで私はすっかり忘れていたけども、北海道の土産物といえば木彫りの熊であった。昔の祖父の家にこんなのがあったと思うけど、令和の現代に木彫りを買う者は何人いるだろうか。旅もいい塩梅でそろそろこの辺りでお土産を買おうとも思う私であったが、さすがに木彫りを買うという選択肢はなかった。

 

快活クラブで一夜を明かし、一先ずバスで旭川駅を目指す

一夜明け、旭川の快活クラブから旅の2日目が始まる。昨日までの大通りに車の往来は少なく、時刻表についた水滴を拭いてバスを待った。街中の朝霧を幻想的だと感動しては大袈裟だと嗤われるかもしれないが、念願の神社へ向かう当人にとっては、吐く息の白さを見るだけでも嬉々として心が弾んだものだ。

 

ここは北海道である。東京なら長袖一枚で過ごせる陽気が、ここではダウン必須の寒冷地。それもまだまだこれから、10月初旬晩秋の旭川である。

 

私は定刻通り7時18分のバスに乗り、旭川駅へ向かった。駅の近くには大きなロータリーがあり、その中央の時計台には5.5度と表示されている。

 

大きさもさる事ながら、これ程開放的な駅は東京にはない

駅前の停留所から再度バスに乗り、10分ほど揺られて「上川神社」に着いた。ありがたいことに、バスを降りた目の前が社頭である。左に社号標、眼前に神明鳥居が立ち、その向こうに丘を登るような石が段々に築かれている。

 

上川神社社頭

その様相は樺太やら外地に造られた国家神道時代の神社そのもので、在りし日を彷彿とさせる参詣路がそこにはあった。近代に造られた北海道の、近代に移民した者が建てた、近代の神社の一景である。社殿と社前の景観もまた好いもので、自然の中に溶け込んだとは言い難し人工的な景観でありながら、奇を衒うものは何もなく、一言でいえば極めて清浄な空間であった。

北海道の神社建築は妻入が多い。なお雪害の影響か建築当初の建物はあまり残っていない

シンメトリーに配したツリーは黒々とした社殿に潤いを与えるような色合いで、メインの社殿は豪壮かつ端正な構えをしている。すべて私の勝手気ままな写実だが、私はひとりでに興奮したものだ。

 

社殿脇の自然

カメラを構えると野鳥がやってきた。やたら身の回りを飛び回るので、カメラのレンズにも写ってしまう。エゾリスは地を駆け回り、地面をぱんぱん叩いている。遠くで若い女が戯れている光景を観て、私もちょっと遊んでみたくなった。

 

境内を駆けるエゾリスが何とも新鮮であった

足元の小石をひょいと投げると、地面を叩く前足を止めて、私の元へ駆け寄って来た。足元まで来て私の悪戯心に勘付いたのだろうか。目が合った途端ピタリと止まって、急にターンして逃げてしまった。それから幾度となく小石を放ってみたが、その手には乗るまいと二度と私の元へ来ることはなかった。

 

旭川駅へ向かいて、最後に再び「北海道博物館」を目指す

たまたまとはいえ、1本早いバスに乗れたのは幸運であった。後々土産を買おうという思いもあったが、何より「北海道博物館」の展示図録を手にするために早めに札幌へ戻らなければならなかったからである。

 

北海道博物館の展示図録 全ページカラーで写真が多い

家に帰ってもどうせ読むまい。いつぞや神社で手にした由緒の冊子のように部屋の隅に追いやられることだろうと退館したものの、後になってどうしようもなく気になって気になって。そこで旅の最後に再度訪館し、念願の図録を手中にした。

 

東京と北海道のフライトが2時間も掛からない故に、両地のギャップが凄まじい。新千歳を夜出て、その夜の内に東京へ着いてしまう。家に着く頃にはさすがに日付を跨いだが、それでもついさっきまで北海道に居た記憶は強烈に残っており、東京とのギャップは異世界レベルの凄まじいものであった。あれは夢か現か。そんな中あの図録をめくる度に、本当に北海道へ行ったのだと実感して嬉しくなる。今思えば、あの時買っておいて正解だったと切に思う。今後も当地のことを深く知るきっかけにもなろうし、何よりいつかは消える旅の記憶ももう少し長く止まってくれるだろう。

 

 

そういう幸せな記憶を綴りに綴って、そろそろ旅の終わりとしたい。