
眠気もどこかに飛んでって、ここまで至る経緯を空想とともに1万メートルを飛んでいる。機体は分厚い雲の中へ飛び込んで、眼下にコバルトブルーが見えてきた。ようやく海だ。遠くにも暗い島影が幾つか浮かんでいる。そう思ってしばらく見ていると、コバルトブルーは厚い雲。遠くに見える島影ははぐれ雲であった。一体いつ現れるのか。機体は更に下降して、抜けてはまた厚い層に入っていく。
「ええーい、沖縄島はまだか!」
純粋無垢な子どものように体を迫り出して、機窓を見遣る私ももう限界である。半ば不貞腐れたように視線を外して、またシートに体を預けた。しばらくすると海に浮かぶ船舶と平坦な島影が視界に入った。ここからはあっという間である。熊本も福岡も、まるでダイブするかのように、この時も「波上宮」を探しているほんの少しの間に着陸してしまった。

着いてしまえばあっけなく、まるで客観的事象を淡々と繰り返しているような面白味のない日常である。これで全国制覇とはな。それにサラリーマンの姿もあって旅の気分に水をさす。もし隣に愛方でもいてくれれば、「ようやく着いたね!」なんて一言二言交わして、旅の期待にエンジンもかけようものだが。私は人波に流されるようにゆいレールに乗り込んだ。

「ゆいレール」という乗り物も既に調べはついている。空港直結の那覇市を走るモノレールだろう。市内の観光ならひとまずこれに乗ればいい。…と何かしらん知った風なことを言っておいて、当の本人は乗り方も知らず、平日だのに東京さながらの観光客の多さに驚く始末だ。私はあらかじめ写しておいた旅程表をスマホで見つつ、時折車窓からの景観に目をやった。なんとなく想像はしていたけれど、どこもかしこも建物が多いな。大きなビルに大きなマンション。それもぎゅうぎゅうに詰んで、心なしか苦しそうだ。申し訳なさそうにシーサーなんて置いやって、これで沖縄感を出したつもりだろうか。コンクリートも嫌に目につくし、外食チェーン店も本土に比べてガラス面が少ないように観える。私はおもろまちまでの10駅を、ひたすら思考に費やした。

昼食に沖縄そばをすすり、「沖縄県立博物館・美術館」へ向かう。
もし人がいなければ、もう少し感情を表にしただろうか。諸手を挙げて、「ついに来たぞ!沖縄!」なんて…。別にさとうきび畑が広がっているのを想像してきた訳じゃないし、そのギャップにショックを受けたわけではない。むしろその逆、本土との相違に目を見張るものがあって、見えざる心の中で沸々と沸騰しているものがある。街路樹一本にしても、轟音を放つ軍用機にしても、感受性という名のレーダーが敏感に察知して、興味関心の眼差しで見逃すことができないのだ。だが細かなものを観ようと思えば思うほど、エネルギーの消費は甚だしく、私はつい今し方沖縄へ来たばかりだというのに、まるでコンセントを抜いたように倒れてしまうのである。
その顛末は追々にして、本土で生まれ育った私は、沖縄にかつて琉球王国という王国があって、日本でありながら大陸に近しい華やかなイメージを沖縄に持つ。そして島民を巻き込んだ地上戦が勃発し、多くの命が失われた沖縄戦。それを背景にして、三味の音に青く透き通る海と赤屋根のシーサーがときに哀しくも南国の楽園を彷彿とさせる。かような印象を元に琉球王国は長く繁栄した国家だと想像していた。しかし、決して安寧とは言えない時代もあったようで。
ここで簡単に歴史を振り返ってみようと思う。まず、日本本土が縄文時代前期から平安までの長い間、沖縄では未だ先史時代が続き、狩猟、漁猟、採取を糧に、九州や中国大陸といった周辺地域との交易を行う社会であった。それが11世紀頃以降になると、本格的な農耕が始まり、海外交易も活発化。次第に力を持った「按司(あじ)」といわれる地方豪族が出現した。まったく古今東西、人の歴史というのは絶えず争いがあるもので、方々に現れた按司の戦もある意味必然ともいうべきか、とかく互いに勢力を争う戦乱の世が訪れたのだが、この頃沖縄全域が初めて一つの文化圏となったのは注目に値する。また沖縄島を中心に北は奄美から南は宮古、八重山の島々まで数多くの石を積み上げたグスクが築かれた。このグスク、はじめは集落や聖域として機能していたものの中から、按司の居城や山城が出現したと考えられている。かの有名な首里城(しゅりグスク)もこの時代の産物で、琉球国王の居城であるとともに、国の政治・経済・文化の中心として王国時代を生き抜いた唯一にして最大のグスクであった。
さて、当代は有力な按司らがしのぎを削る長い戦の時代であった。これが次第に三つの国とあいなって、沖縄島中部に中山(ちゅうざん)王国、北部に北山(ほくざん)王国、南部に南山(なんざん)王国が生まれ、それぞれの国が独自に王を名乗った。これがいわゆる三山時代といわれるもので、ことに現在の浦添市を拠点にした中山は、歴史書に登場する初めての王統・舜天(しゅんてん)を先駆けに英祖(えいそ)、察度(さっと)の三王統が栄えることとなった。しかしながら、同じ王国とて、王権の交代は血で血を洗うもの。中には人知れず失踪した王も居たらしく、決して穏やかではなかったようだ。その後強力な中山を討ち、北山、南山をも治めたのが尚巴志(しょうはし)なる人物で、1429年(尚巴志8年)、琉球史上はじめての統一国家が誕生し、ここに琉球王国の始まりを見たのである。
最初の王統である第一尚氏王統は、統一政権樹立後、王城の首里城築城や那覇港を成立させ、斎場御嶽(せーふぁうたき)や久高島(くだかじま)を五穀発祥の地として聖地化。琉球の信仰世界の原形を作った。他にも多くの外来宗教を導入した展開もあるにはあるが、この時代の特筆すべきは何といっても他国との貿易だろう。第一尚氏は、察度(さっと)代に開始された明朝への進貢貿易を軸に、東南アジア貿易を展開し、朝鮮にも使者を送って交流を図るほか、室町幕府とも交流して貿易を行った。そんな当代の繁栄を伝える遺物としてよく挙げられるのが、かつて首里城正殿に掛けられていたといわれる「万国津梁(しんりょう)の鐘」である。銘文には「琉球が海外諸国に橋を渡すように船を通わせて貿易を展開し、国には諸外国の宝物が充満している」と王国の気概と繁栄を伝えるもので、実際に琉球は交易国家として未曾有の発展を遂げたのである。
政権基盤の脆弱さから、7代わずか64年と短命に終わった第一尚氏王統ののち、先王の血筋を引かない金丸(かなまる、後に尚円)がそれまでの政権をひっくり返し、第二尚氏王統を開いた。この王統も貿易に関して引き継がれたところは多いが、特に3代目に王位についた尚真(しょうしん)なる王は、琉球王朝の栄光を築いた王として名高い。尚真王は、海外諸国との交通・交易を盛んにし、財政基盤を確立。その上で、地方の按司らを首里に集居させては武器携帯を禁じ、士族階級の身分を明らかにして統制したり、地方の神女も王府の組織に組み入れた。斯様にして政教両権を王が握ることで、前代類をみない中央集権国家が誕生したのである。
琉球王朝は交易国家として繁栄し、国力も充実してまさに黄金時代を迎えた訳だけども、16世紀後半には王国を取り巻く交易環境の変化について行けなくなってしまう。明朝の解禁策が緩和され、多くの中国商人が交易へと乗り出してきたし、日本も堺や博多の商人が海外へと雄飛して、南海にはポルトガルやスペインまで勢力も増している。琉球は強力なライバルになすすべなく国際舞台から下りざるをえなかった。激動する東アジア情勢の中、交易の不振に国力衰退を辿る琉球。そんなどん底ともいえる状況の中、攻め込んできたのが薩摩島津軍であった。長年平和が続いた琉球軍側は、薩摩島津軍の鉄砲の前にはなす術を知らず、わずか七日間で首里城は陥落してしまう。これを境に、琉球は幕藩体制下に組み入れられた。一応王国の独立は認められたものの、中国と薩摩の顔色を窺いながらの政治、外交の舵を取ることとなる。
なおも心配事は続く。幕末期、琉球には多くの異国船が姿を見せていた。とても武力で追い払えるような相手ではないし、そもそも軍事力がないから、異国船に対しては最低限の要求を呑んで、なるたけ速やかに出港してもらうことに努めるようにした。1853年から54年にかけて、五度も琉球にやってきたペリーの艦隊に対しても、基本的に守るだけの外交でしかなかった。
日本本土で討幕の嵐が吹き荒れ、明治政府が成立すると、明治天皇は時の王・尚泰(しょうたい)王を琉球藩王とし、華族に列した。これは琉球国を琉球藩とするもので、その後の廃藩置県を念頭に置いた布石であった。琉球側は反発し、アメリカやフランスなど条約締結国へは独立国琉球を日本が併呑しようとしている旨を訴えたり、中国へ密航して北京政府への嘆願活動も行ったが、1879年、明治政府は琉球処分(廃藩置県)を断行。王府側の執拗な嘆願も虚しく「沖縄県」が設置された。第一尚氏王統から470年以上続いた「琉球王国」のこれが最期であった。

新生沖縄県となってからも誠に新しき、そして激動の時代を迎えることになるが、いかんせん私の体調が良くなく、いや実は今「沖縄県立博物館・美術館」にいるのだ。最初の先史時代の出土品から事細かく展示ブースに目をやって、近代になる頃にはさすがに一杯一杯。その後訪問予定の「波上宮」も気掛かりだったというのもあるが、何より湯上がりのようなふらつきがあって。きっと細かく見過ぎたのだ。なんせ初めての沖縄。大いに期待して感受性もフル稼働だからなと自答したところで、私はすぐさま否定した。そんなものではない。体調不良の原因はこの寒暖差だ。私はちゃんと記録しているし、まだ記憶にも新しい。思い返してみても、今朝成田を発つ前、快活を出た早朝5時の時点で2.9度。それからわずか数時間で20度以上も上昇した環境に今身を置いているのだ。そんな急激な温度変化について行けず、体が悲鳴を上げるのも当然だろう。ダウンもカーディガンも既に仕舞い、何なら長袖のシャツも捲りに捲って半袖になって市街を歩く。なんたることだ。汗もしたたり、とても二月とは思えない。
このまま「波上宮」へ行く選択肢もあるにはあった。しかしもう時間もないし、何より新しいものを受け入れる余裕が私の体には無かったのである。だから波上宮は後日。そうだな、最終日には沖縄の菓子でも買おうかと余裕を持たせておいたので、この頃に神社へ訪問しようか。まだ日は高く15時だが、今はとにかく涼しい部屋に籠ってアイスでも食べ、そのままマットの上にダイブして寝てしまいたい、その一心であった。
でもまだ沖縄へ来て3時間ほどしか経っていないのに、初日博物館に行って終わりというのもちゃんちゃら可笑しいと客観する自分も居て、ダイブしたい、ダイブしたい気持ちもあるが、菓子店を調べてみたら、なんと博物館から歩いて行ける距離に販売店があるではないか。これに気をよくしてしまい方向転換。私は一路、沖縄の郷土菓子を求め、再び腰を上げることとなった。

それにしても驚いたな。こんなに暑いのに学生なんぞブレザーなんか着ちゃって。おいおい、あの児童なんてマフラー巻いてるぞ。完全に冬仕様じゃないか。日差しは本土のGW明け頃のように強く、暑さで手元の温度計は25.6度と表示されている。沖縄人に訊いたら、どうも昨日今日から暖かくなったらしい。それに沖縄の子はニットなどを好んで、でも中はタンクトップとか軽装なんですよと。こう語るのは、丸玉直売所の店員である。

明治20年創業の丸玉が販売している「タンナファクルー」は琉球の伝統菓子だ。硬いのか柔らかいのか、現代の菓子にはない妙な食感と黒糖風味に郷愁を誘う。まったく違う風味だけれど、ニッキ菓子の古い時代を思い出した。もっとも口にしたのは帰宅後であったが、当時は狙いの琉球菓子を手にしたこと、それに沖縄人と初めて言葉を交わして、少し嬉しくまた安堵して、あとは速攻寝床へダイブしたのは想像に難くない。

1時間半ほど眠りこけ、帳面を買い求めては今日あった出来事をしたためた。あとは明日の予習だな。「ハビャーン」とか「カベール」とか、沖縄は難読・難解な言葉や地名が多い。どこに何があるか、少しは頭に入れておこうと思う。