杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

秋田ひとり旅vol.2 秋田市「古四王神社」

30で故郷を発ち、遠くみちのくを旅した江戸後期の旅人・菅江真澄(すがえますみ)は、76で没するまで一度も故郷に帰ることはなかった。その終焉は現仙北市の角館とも梅沢(田沢湖町)とも言われているが、地誌を書き終えた文政12(1829)年6月から死去する7月19日までを伝える資料は残っておらず、どうもはっきりしない。ただ、真澄の亡骸は、終焉の地の一つ角館の「神明社」から久保田(秋田市)に移され、友人の鎌田正家(かまだまさやか)の鎌田家墓地に埋葬されたのは確かなようだ。

車道から右の山を登り翁の墓所

先の「日吉八幡神社」で出会った男性は真澄の資料の件で縁があり、私が「この後菅江真澄の墓に行くんです」と伝えたのを皮切りに、そして「秋田県立博物館」で購入した展示図録を携行していたこともあって話に花が咲いた。その後は前の記事に書いた通り、真澄の墓まで車で送ってくれたのである。

 

菅江真澄翁の墓

丘に登ると眼前にいくつもの墓があり、どこにあるか分からなかったが、道なりに真澄の墓はあった。翁の生涯を記した案内板が墓の近くにあり、この人物を知らぬ者でもそれなりに理解できる。それ以外は、弟子が記したという長文の挽歌が刻されている位で特段新しいものはないけれど訪問した証として写真を撮り、また真澄を偲びつつ私は静かに手を合わせた。

教養はあれど、現代のように自由がない時代にとにかくよく歩いたものだ。その道程は極寒のみちのくに、時に人情に触れ、また目を覆うような大飢饉さえあったであろう。そして民俗学や地誌の編纂、各々のスケッチも学術的価値として評価されるのは勿論だが、一人の人間としての生き方をみても興味深いものである。

 

古四王神社社頭

墓所の近くに真澄が訪れた「古四王神社」という宮がある。

「古四王」「越王」「巨四王」とも称し、北陸から東北日本海側で見られる。また厳しく武運にも神徳のありそうな名である。神社建築や景観を中心に巡る私の旅とは趣味が異なるが、私が真澄に惹かれこの地を訪れたのもまた何かの縁だと思い、ここ古四王へと足を運んだ。

 

古四王神社境内(右は田村神社)と真澄の碑

全国で唯一一宮の無い秋田県で、近代には最も社格が高い国幣社に列した宮だけれど、曇天ともあってか琴線に触れるものなく、社務所の門扉すら寂しく見えた。もし愛想の良い神職ならば、境内に建つ真澄の碑の一つでも質問に応えてくれそうなものだが、授与所の隙間戸からスッと神職の手が伸びるだけの対応だったので、訊いてはならぬとこちらも身を引いてしまった。スッと御朱印を受け取り、とりあえず神社も石碑もカメラに収めることはできたし一応はOKと、タイミングよく来たバスに乗り秋田へ戻る。

 

宿は田沢湖。雪はどれほど残っているか。