杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

岩手ひとり旅vol.2 遠野市「荒神神社」

「いやぁ、おかげさまで快適でした。

レンタサイクル も利用したいのですが、よろしいでしょうか…」

 

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駅前の観光案内所 レンタカーやレンタサイクルを利用できる

受付の人が、一瞬えっ⁈ と固まったように見えたのは私の被害妄想か。

それもそのはず、8時30分の利用開始から僅か3時間弱と予定時間を1時間以上も残しているにもかかわらず、抜群の機動性を放棄し、レンタサイクル へ鞍替えするのだから。ちなみに終了時間は、13時で事前に連絡して延長することも可、かつ延長料金も掛からない。多くの人は、行き先がどこであろうと継続してレンタカーを乗り回すだろう。だが、私はなるたけ現地の空気を肌で感じたい性分ゆえに、極力電車と徒歩、レンタサイクルで旅程を組むのである。わざわざお金を掛けてまで乗り換えるなんて、効率を求める人間からすれば馬鹿げた行為かも知れないが、中途半端に廻るぐらいなら、いっそ行かない方がマシだなんて考えている。

 

さて、遠野市観光協会でレンタサイクルの手続きを済ませ、私は「荒神(あらがみ)神社」を目指した。

荒神神社は遠野駅から南西へ8キロ程の場所に鎮座し、神社でありながら仏寺建築で見られる「宝形造り」という建築様式で茅葺き屋根の落ち着いた外観が魅力的である。なにより、田園風景に囲まれた美しい情景が遠野を代表する景観として人々を魅了している。一度SNSか何かで拝見した記憶がある私は、かねてよりいつか訪れてみたい場所だったのである。

 

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国道をひたすら漕いでいく

今日はその念願の場所へ行き、その景観をこの目で拝むことができる。既に8キロもの道程しかないことを思えば、もうほとんど着いたも同然だ。そうたかをくくっていた私だが、これが大誤算だった。行けども行けども見えてこない。遠い、遠すぎる。後で分かったのだが、国道340号線から早々に左に折れたのがまずかったようだ。通らなくてもよい無駄な山をえっちらおっちら漕いで汗をかき、おまけに変な砂利道にまで誘われ、グワングワン揺れる体にお尻は悲鳴を上げている。いざ、行かんと気合を入れて漕いでみると、草木に止まった赤とんぼが驚いて一斉に飛び立った。光の玉が地上から宙へ浮遊するようなそんな姿を想像して、また映画のヒロインにでもなった気分であった。

 

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赤とんぼの群れ

天を指差し戯れて、時に汽笛を聞きながら、また漕いでいく。こんな自分を郷里の友は何と思おうか。30なら家庭をもつ者もおるだろう。対して私はといえば…。

 

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田畑を横目に砂利道を漕いでいく

だけど、とても幸せなんだ。

雨にも負けず、風にも負けず、たとい凸凹径を行こうとも、そこに惟神の一宇がある限り、ただ前へ進むばかり。ようやくまともな道へ出たかとふと横目に見れば、そこにようやくあの一宇が現れた。

 

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早池峰山を背景にぽつりと佇む荒神神社

突然視界に入ったという表現が最も素直だが、僅か2秒も持たずその衝撃は潰えてしまった。それは早池峰山を背景にぽつりと佇む田園の一宇であった。宝形造りだとかそんなことはもうでもでもよかった。自ずから然る、特筆しない叙情的な景観がそこにはあった。路傍の道祖神や田の中の小祠のように風景に溶け込んだそのさまは、つらつらと書き連ねることすら余計なことのように思える。遠野の風景というより、在りし日の日本の原風景と言った方がいいだろう。だから遠野も、それを見ている私も特別ではなく、田舎ではどこにでも在った、あるいは存在する極々自然な景観だと思う。それもその土地に根付いているということを付け足せば、伊勢神宮石清水八幡宮のような国家の宗廟ともいえる大社とは根本的な相違があって、極めて民俗的かつ郷に暮らす者の息吹すら感じる情景である。

荒神神社は、遠く早池峰山を背景として、四季折々の変化とともにある。春は暖かな日和とともにあり、夏は水面に映る社殿ととともにあり、秋は黄金色の稲穂とともにあり、冬は粛々たる雪原とともにある。

 

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次はいつこの風景を望むことができようか。

これを機に、全国の茅葺の風景でも撮り歩いてみたいものだ。