杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

福井ひとり旅vol.2 勝山市「平泉寺白山神社」

僧兵が九頭竜川から石を運んだと伝えられる中世の参道

古の路と共に往時を偲びながら「平泉寺白山神社」を目指す。

 

発祥の地 御手洗池(みたらしいけ)

平泉寺白山神社元正天皇養老元年(717年)泰澄(たいちょう)大師が白山に登ろうとしてこの地に来たとき、木立の中に泉の湧き出でるのを発見し、神託を受け、社を建ててお祀りしたのが当社の創始と伝えられている。

 

中世の古図(現地案内板より)

平安時代より隆盛し、白山信仰を背景に北陸最大規模の宗教勢力となるや最盛期の戦国時代には六千もの坊院(僧侶の住居)、僧兵は八千を数えたという。今に残る古図からもその栄華を窺うことができ、神域には白山中宮七社権現を中心に神明社祇園社、天神社、木曽宮など48社。またこれに付随して大講堂、三重大塔、法華堂、常行堂、不動堂、大師堂、薬師堂、惣門、南大門等多くの社堂が配された。特に本社前に造営された拝殿は、南北四十五間八分(約83メートル)、東西七間二分(約13メートル)にもなる大拝殿であった。しかし、天正年間の一向一揆により全山灰燼。

 

禊を行ったという下馬大橋とその先の菩提林(ぼだいりん)

そんな歴史を背景に地表のすべてを覆いつくさんばかりの青苔が生まれ変わりを表しているかの如く繁茂し、多くの参拝者の目を愉しませている。かくいう私もこの緑を拝すべく訪問し、菩提林(ぼだいりん)からの道のりを中世の古道と共に歩んでいる。

 

菩提林を歩む

向かいから一人また一人とすれ違い、社頭の鳥居を潜る頃には子ども連れの一行とも出会すほどに参拝者もちらほら見えてきた。ふと勝山駅の営業時間に合わせてレンタサイクルできたなら、6時には社頭に着いて誰もいない青々とした神域を撮影できただろうとも想像したが、そんなこと今となってはもうどうでもよい。

 

それは、宿の主人が大野から勝山駅まで送迎してくれた一件にある。

 

大野駅、白山までの道のりも愉しみたいゆえ駅のレンタサイクルを利用する

大野から白山を目指す移動手段にタクシーを使うことを宿に伝えていたが、営業所が夕方5時で閉まることを女将は知っていて、もし私がタクシーを予約していなければ送迎の提案を視野に考えていたらしい。その女将の気配りと送迎してくれた宿の主人、まるで祖父母の家に来たような安らぎのある和室。焼けた腕を痛く刺激するほどの熱々の風呂は、この宿の厚遇を表しているようだった。

 

思えば人抜きにしてこの旅は成り立たぬ。少し大袈裟かも知れないが、私が着ているこの服も、このサックも、私が歩いているこの道だって人がつくったものである。鉄路を敷いて客車を動かす鉄道員も休日すら働いている。こんなにありがたいものがあるもんか。

 

白山神社の境内に足を踏み入れる

そして大野から勝山に至っては、宿主の送迎により私は10キロほどの道のりを何の労力も要さず、一銭も払わずして勝山へ来てしまった。そうして多くの人と人との関わりがあって神社まで来れたのだから、この上神前で心願しようものなら全くもっておこがましい話である。ようやく来れました。ありがとう御座いましたと手を合わせるだけで十分ではないか。私は心の中でうんうんと頷いて、じわりと沁みる人情にひとり幸せな気分に浸った。

 

苔が最も美しい時季に参拝する

境内は数日前に降った雨で潤い、青苔の綺麗な時季に訪れることができたのも嬉しい限りであった。これだけの美しい神域を維持できるのは、清掃維持管理者の奉仕はもとより、訪れた一人ひとりが苔を踏まぬよう意識して拝観しているからであろう。一言たりとも注意書きが無い上にこの景観は、まったくもって奇跡に近い。また拝観料も取らず、国の名勝に指定されている「旧玄成院庭園(きゅうげんじょういんていえん)」も僅か50円ときた。御朱印も直接帳面に書こうとも300円だから、ある者は申し訳ないとお釣りを受け取らず寄付する人もいた。これが日本人である。

 

御手洗池に現れたニホントカゲ(幼体)

さて、山中を歩けばザトウムシがわらわらと逃避し、霊泉に至ってはニホントカゲやギンシジミとも出会し、私はそれぞれにカメラを向けた。境内を隈なく歩き、「南谷坊院跡(みなみだにぼういんあと)」を見学したのち中世の石畳を経て、また菩提林の入り口まで戻ってきた。当初の旅程であった、白山の資料館「歴史探遊館まほろば」(ここも無料!)や勝ち山のおやきめぐりはまた次回にしよう。ここまで疲れたが、実に充足した旅であった。

 

えちぜん鉄道勝山永平寺線 福井行き

鉄道は今日も動いている。

 

ありがたい、ありがたい。