【2019年3月16日(土)奉拝】
東京都港区赤坂に鎮座する「赤坂氷川神社(あかさかひかわじんじゃ)」は、須佐之男命(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る神社です。
第八第将軍 徳川吉宗が建てた近世の社殿が現存し、秋には樹齢400年の大イチョウが見ごろを迎えます。都内の貴重な緑地として、また季節を通じて頂ける御朱印も当社の新たな魅力となっています。
- アクセス
- 開門時間
- 見どころ
- 境内案内図
- ⑴「社殿」 第八代将軍 徳川吉宗が建てた簡素な社殿
- ⑵「四合(しあわせ)稲荷」 勝海舟が命名した神社
- ⑶「氷川神社のイチョウ」 生命力の強い大銀杏
- 御朱印情報
- 赤坂氷川神社を参拝して
アクセス
※電車
・東京メトロ千代田線「赤坂駅」
日比谷線、大江戸線「六本木駅」
南北線「六本木一丁目駅」
銀座線「溜池山王駅」、各駅より徒歩8分。
※車
・境内に8台程の駐車スペースがありますが、電車の方がラクです。
詳しくはこちら↓
開門時間
開門時間は、6時00分〜17時30分です。
(社務所:8時00分〜17時30分)
見どころ
赤坂氷川神社の見どころ、3箇所あります。
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⑴社殿
⑵四合稲荷(しあわせいなり)
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境内案内図
(出典:「赤坂氷川神社公式HP」より一部編集)
⑴「社殿」 第八代将軍 徳川吉宗が建てた簡素な社殿
近世の朱漆塗りの建物といえばこの造りという程に、こちらも拝殿・幣殿・本殿を繋ぐ「権現造り」で建てられました。
徳川吉宗の気風を感じる社殿💡
享保15(1730)年、第八代将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね)の「享保の改革」の最中に建造されたため、社殿にも当時の質実簡素な気風が表れています。 通常将軍の寄進する社寺は、彫刻や彩色が施され豪華に仕立て上げられるものですが、当社の社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。
しかし、ただ簡素なだけでなく、大きな雲形組物吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れているほか、朱漆塗りを主としながら部分的に黒漆塗りや黒色金具を用いることで引き締まった印象を与えています。
社殿の周囲に造られた庇(ひさし)には、明治のハイカラを匂わすアール・ヌーヴォー調の支柱があります。一見すると西洋風ですが、装飾の真ん中には神社で散見する巴紋があり、和洋折衷の意匠であることに気付かされます。
明治期のデザインとしてアール・ヌーヴォーは一般的ですが、現代でも部分的に取り入れられることがあるので、いつの時代の意匠かは判然としません。
ただ、神社建築にしては珍しくオシャレですよね!
⑵「四合(しあわせ)稲荷」 勝海舟が命名した神社
境内には、晩年の勝海舟(かつかいしゅう)翁が命名した「四合稲荷神社」があります。
赤坂周辺にあった
- 「古呂故稲荷(ころこいなり)」
- 「地頭稲荷(じぬしいなり)」
- 「本氷川稲荷(もとひかわいなり)」
- 「玉川稲荷(たまがわいなり)」
の四社を明治31(1898)年に遷座・合祀し、勝海舟が四合(しあわせ)稲荷と命名。その後更に三社合祀し、現在七社のおいなりさんが祀られています。
現代人なら「幸せ稲荷」と表記するのでしょうが、そうでないところが時代相応ですね。ただ、当時から「幸せ」と呼んでいたかは、私的には疑問ですけど。
⑶「氷川神社のイチョウ」 生命力の強い大銀杏
(出典:「赤坂氷川神社Facebook」より)
赤坂氷川神社のイチョウは、当社が建立された享保15(1730)年より以前からここに自生し、推定樹齢は400年といわれています。
港区内に現存するイチョウでは最大の「善福寺逆さイチョウ」に次ぐ大きさで、区の天然記念物に指定されています。大東亜戦争の時代には、東京大空襲の焼夷弾が直撃したものの、生命力が強く、今日でもきれいな黄金色の葉を見ることができますよ。
(見ごろ:11月中旬)
御朱印情報
(赤坂氷川神社) (四合稲荷)
受付時間 |
8時00分〜17時30分 |
拝受場所 |
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初穂料 |
通常:300円 |
オリジナル御朱印帳 |
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備考 |
・令和元年初日には、奉祝の記念御朱印が1日限定で頒布されました。
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赤坂氷川神社を参拝して
どうしても神社に行きたい気分だけど、泊り掛けまでする気分ではないときがあります。私は都内在住ですが、人が多く賑やかな神社は私の趣味ではありません。それでもどこかしら外出したい気分が拭いきれずに参拝したのが「赤坂氷川神社」でした。
以前、「秘境神社」に関する本で紹介されていた当社は、秘境とは言わずとも、確かに緑が多く、縦横無尽に走る地下鉄の都内にしてはホッと一息つける場所なのかもしれません。
(氷川坂沿いの参道付近にある太鼓橋)
それよりも徳川時代の建物や、勝海舟が命名した「四合稲荷」、焼夷弾直撃の大イチョウは特に印象に残っていて、参拝中も記事にすることを意識してカメラを向けたのを憶えています。
また後で知って驚いたことに、勝海舟は明治32(1899)年、齢77まで存命だったことです。
「四合稲荷」は、晩年の勝海舟が亡くなる前年に命名したのであって、幕末のイメージが強い私にとっては、驚きとともに勉強にもなりました。
境内の大イチョウには、裏側の幹に焼夷弾直撃の傷あとが残っています。
空襲の惨禍を知る上でも重要かと思いますので、参拝の際は、こちらにも足を運んでみて下さいね。
(出典:「Wikipedia(勝海舟)」より明治期の勝海舟翁)