杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

三重ひとり旅vol.1 鈴鹿市「都波岐奈加等神社」

2024年は実に悲惨なはじまりであった。

元旦の祝いの最中能登半島で大きな地震が発生し、二日目には被災地支援に向かう海上保安庁の航空機と日本航空機が衝突。焼ける街並みも航空機の炎上もたちまち世界をめぐり、国内外悲しみに暮れる新年の幕開けとなった。

 

地震はいつどこで起きるか分からないとはいっても、まさか元旦に起きようものとは誰も頭に無かった。新年の挨拶を帰省先で、神社で、当たり前のように今年も良い年にとの願いも虚しく、その帰宅後に家が倒壊して命を落とした者もあったという。神はなんと残酷だろうかと思えども、神仏なんぞまるで関係なく、不幸は誰にでも降りかかる。しかし、だからこそこの命大事に、日常の些細なことにも有難いありがたいと暮らしたいものだ。

 

香川といえば、うどんだろう!

さて、私は四国香川へ帰省しており、揺れはあったらしいが夢の中にいたのでまったく気づかなかった。新年だからといって誰が訪ねることもなく、鏡餅とおせちを除けば日常となんら変わらぬ、食うては寝るだけの新年であった。そういう中で胸元にあった吹き出物を何気なく潰したら患部が肥大し、押すと臭い汁が出るようになった。調べるとこれは粉瘤というらしく、手術で切除以外の完治はないそうだ。新年早々なんてことだと、早く医者にかからねばと、後から思えば大したことではないのだが、やたら気にして、またこんな自堕落な日常で良いものかとブルーな気持ちで過ごしていた。結果から言えば、まったく問題は無かった。医者は「ほぼ粉瘤」との審判を下したが、処方された薬を塗ったら跡形もなく消え、ヒリヒリとした痛みも無くなった。どうも盛大に化膿していたらしい。

 

松浦武四郎記念館

ところで、気持ちを少しでも紛らわしたのが旅程の作成だった。昨年民俗学者宮本常一の書で知った北海道の名付け親こと松浦武四郎(まつうらたけしろう)に魅せられて、1月は武四郎の記念館や生家を訪ねようと三重へ向かう旅程をこの時作成した。決行は1月26日である。

 

この日は寒波の影響が残る冷たい一日だった。およそ2週間も前から現地の天気をチェックして、天気はもちろんのこと、最高気温が10度を超えるようにと祈願する毎日だったが、いざ当日とならば、雪が降りそうな寒風吹き荒ぶ現地に顔はガッチガチ。記念館へ入る前にまずは暖を取ろうという塩梅であった。

 

三渡川の橋上から

実は松坂から武四郎の記念館まで、9キロもの道のりを自転車で漕いで行ったのである。松阪駅前の観光情報センターから国道166号線へ至り、轟々と走るトラックを横目に大通りを津方面へ向かった。ただでさえ風が強いのに、車の往来がより一層強くさせ、橋を通る際などは川上からの強風で倒れそうになりながらカメラを構えた。そうやって痛い思いをしてまで自転車で向かうのは、道中ふらりと店に入ったり自分のペースで動きたいからだけれど、寒風が顔面にぶつかる度に「ゔぁぁー」と(レンタサイクルを選択したことに)後悔の念に駆られたりもした。

 

武四郎生誕の地より、屋内より見たる伊勢街道

松浦武四郎は江戸時代末期から明治にかけての探検家である。文化15(1818)年、現在の松阪市小野江町に生まれ、幼少の頃から旅に憧れを抱き、若い頃にふらっと外出して10年も家に帰らなかったという。折しも「おかげまいり」の出来事に、家の前が伊勢街道ということもあって多くの人の往来を見て聞いたその生活環境も諸国漫遊のきっかけであった。東京へ出て篆刻を見様見真似で学んで自活旅する中、病に臥した長崎で蝦夷がロシアに狙われている話を聞き、危機感を抱いて北方へ出向いた。まだ一般には知られていない蝦夷地の道なき道をひたすら歩き、訪れた土地の地名に地形、行程、距離、歴史、人口、伝承、風俗などを調査・記録した。その記録や紀行を多く著し世に送り出したのである。こうした蝦夷地の実情を世に広く知らしめた蝦夷通の功績もあってか、明治の世になりて、新政府より「蝦夷地開拓御用掛」の仕事として蝦夷地に変わる名称を考えるよう武四郎に依頼がきた。いくつかの候補から、「北加伊道(=北の大地に住む人の国)」が取り上げられ、後に誰もが知る「北海道」となったのである。

 

記念館の展示スペース

記念館は最近リニューアルしたらしく、地元の偉人を伝える記念館にしては光って見える。人物像を伝えるコーナーはもちろん、武四郎がくまなく調査したことが一目で分かる北海道の大きな地図がフロアの中心に置かれており、その細かな地図に来館者は皆目を遣っている。この地図こそ武四郎北方探検の結晶だろう。安政6(1859)年に出版されたこの地図は、『東西蝦夷山川地理取調図(とうざいえぞさんせんちりとりしらべず)』と呼ばれ全28冊、全体寸法タテ260センチ、ヨコ360センチにも及ぶ大きなものだ。

 

『東西蝦夷山川地理取調図』より、右は函館港

経度・緯度を1度ずつ区切って1枚(1冊)とし、山の地形を緑の細い線、川の流路を青で示したほか、約9800点に及ぶアイヌ語の地名が記されている。武四郎は伊能忠敬間宮林蔵などの測量成果を基に蝦夷地の輪郭を表し、自分の歩幅で距離を測り、景色をスケッチして方位を書き添えるとともに、地名や行くことができなかった場所の情報を276人のアイヌの人々から聞き取り、この地図を完成させた。

 

スマホで読み取って武四郎の足跡を知る

他方でロビーに置かれたパネルも面白かった。

こちらは武四郎の旅の足跡を示したもので、都道府県の2次元コードをスマホで読み取ると、武四郎の旅のエピソードが表示されるというものだ。私は故郷である香川県を読み取って、武四郎が70歳の折、「滝宮天満宮」へ訪問していたことをこの時初めて知ったのである。

 

松阪駅

閑話休題。帰りにラーメンを食して、気まぐれに路線を調べたらいい塩梅に列車の出発が迫っていることを知って、やや急足でレンタサイクルを返却。近鉄名古屋行きの急行に乗った。津で乗り換え、伊勢鉄道で河原田へ向かいて1.7キロ、30分ほど歩いて「都波岐奈加等神社(つばきなかと)」を訪れた。

 

堅牢な建物だ

住宅地に佇む鉄筋コンクリートの姿を事前に知っていたから当社の優先順位は低く、この日のメインイベント松浦武四郎記念館と生誕地訪問のついでとなるは自然なことだった。社殿は本望ではないけれど、神社へ向かう道中が愉しいし、一宮巡拝が目的だからこの際どうでも良い。強固な社殿は平成の世に不審火で焼かれたからであり、それ以前にも兵火に遭って焼失したことも理由にあろう。耐火性の材は天然素材に比べて神聖さに欠けてしまうのは仕方ないけれど、メンテが楽というメリットがあるので火災に遭った社殿をコンクリートにしてしまう所も珍しくない。大阪の「生國魂神社(いくくにたま)」などはその好例だ。

 

都波岐奈加等神社本殿 平安時代弘法大師が奉納した獅子頭二口が宝物として伝わる

住宅に囲まれる社でありながら、木々の茂る閑静な場所である。コンクリート塀の隙間から眺めて観れば本殿は静かに佇み、周辺は草木一本たりともない静謐な空間であった。ここ最近の寒波で雪が降ったのだろう。少しばかり残雪も視界に入った。今や人工物の多い当社であるが、往古は頗る神聖で、掲示板に貼られた明治に描かれたとされる鳥瞰図を基にしたスケッチには、伊勢を彷彿とさせる神殿が描かれていた。玉垣も本殿もすべて木造で、本殿の千木など神聖そのものであった。

 

通常サイズの御朱印は無かった

さて、私の旅程を見ると、当社で直書きの御朱印をもらうには「要TEL」と書かれておった。事前に調べたものか今となっては分からないが、参道からすぐ見えるところに朱印受付と書かれた授与所が目に入るので安心して参拝したものだ。しかしいざ拝受と桐箱を開けてみれば、中身がないのである。これはこれは。どうもついで参拝と夕刻に来たのが仇となったようだ。仕方なく大判サイズの御朱印を頂戴し、後で縮小コピーして貼り付けたけども、箱を開ける際に少し期待しちゃったから、ちょっと拍子抜けというか何というか。まあ笑って致し方ない。

 

帰りは伊勢まで行く。河原田の列車の都合で、鈴鹿から乗るルートも表示された。後者の場合は河原田へ向かうより更に遠く、3キロおよそ40分ほど歩かなければならないが、時間は十分にあるのでこちらを採用し、私はひたすら歩くことにした。伊勢鉄道沿いをまっすぐ歩き、否応なく左に見える広大な田畑が頗る大きく見えた。

 

 

広い空と広大な土地、自分の目に見える存在を感じれば感じるほどに、我が存在は実にちっぽけに感じるものだ。私もここにいるぞと誰かに知って欲しい。そうでなくとも、知ってもらえれば嬉しいなあという本心が、心からぽとり溢してしまった。まっすぐな道はさびしいが、何と幸せか。この道を進もうと思う。

 

伊勢市に着く頃には、乗客はほとんどいない。

既に夜の中、ここでもまた一人歩いている。