杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

広島ひとり旅vol.1 福山市「素盞嗚神社」

清音で井原鉄道神辺行きへ乗り換える

社務所は9時に開くらしい。言わずもがな、これの12時間前に訪問し、境内を散策して拝受する。この旅は先の「吉備津彦神社」同様再訪になるから、昔を想いつつも今までとは違うルートで向かいたいと考えていた。したがって、行きは普段乗らぬ伯備線井原鉄道を用いることにする。

 

神辺行きの車両

井原鉄道は総社から神辺を繋ぐ総延長41.7キロのローカル線である。20世紀最後の鉄道として開業した新しい路線で、山陽本線より山手にも関わらず8割が高架を走るという。殊に高梁川の橋梁は高所を走り、カーブを描くロングレールのトラス橋と車窓からの眺めが素晴らしい。低速車両のディーゼルといい、まるでトロッコに乗っているような気分だ。

だがひとり旅はこれぐらいがちょうどいい。

 

私は乗客の少ない車内のボックスシートを陣取り、片肘をついて窓にもたれた。変わる変わる車窓のパノラマから、岡山と広島の境を探してみたり、井原で琺瑯看板探しをした少年時代を想い出したりもした。そうこうして8時50分、上戸手にて下車。

 

素盞嗚神社社頭

駅から歩いて5分ほどの所に今回の訪問先である「素盞嗚(すさのお)神社」がある。社頭に立つと遂に来た(来てしまった)という感が湧き起こる。寒さを紛らわすべく動かしたい足を我慢して、祇園祭発祥の碑文をじっくりと読んだ。

 

祇園祭発祥の地とされる当社では、神輿をぶつけ合う「けんか神輿」が有名。

ここに来たのは二度三度目であろうが、あまり良い思い出がない。というのも私が学生の頃、大学のフィールドワークで訪れた際神主に怒られてしまったからだ。確か地元の伝統芸能について調査するという名目だったか、ペアとなった新市出身の友人が当社の「けんか神輿」をやたら推すので出向いた訳だけど、彼も事前にアポを取っていなかったから二人して怒られてしまったのである。この苦い経験が、近場ながら一宮巡拝の再訪が遠退いていた理由でもある。

 

久々の再訪で当時を思い出しながら参拝

さて、久々に来ると境内は広く感じる。一際目立つ銀杏の木はすっかり落葉し、隅の方では枯れ枝をぱちぱちやっていた。匂いがこちらまでやって来て、この冬空と相俟っていよいよ冬らしい。私は前回訪れた時を思い出しながら散策し、以前との相違を確かめるように観て廻った。

 

龍の水口

全国を廻ると境内に設けた建築や配置で祀神や鎮座地が何となく分かったりするものだ。この神社などいかにも瀬戸内らしいではないか。諸物の大小や造形など観てみれば、手水の龍の造形など中々面白い。おそらくほとんどの人は気付かないだろうが、この水口、正面から見ると明治の浮世絵師小林清親(こばやしきよちか)の風刺画『目を廻す機械』にそっくりなのである。そういうちょっとした発見が散策の醍醐味だったりする。

 

本殿は初代福山藩主水野勝成公の造営と伝わる

本殿なんぞ結構大きなもんだ。前からこんなだったか。こちらは想像以上に立ちが高く、ここいらでは少ない入母屋造のやや大型の本殿である。しかも上品な檜皮葺と来たもんだ。今更ながらさすがは一宮だと感嘆する私であった。

 

右が天満宮、正面奥に社務所が見える

私は境内を一通り見て廻り、社務所御朱印を求めた。社務所は10年ほど前に建て直したものでまだ新しい。以前お邪魔した際は、すぐ畳の間があって古い台所も覗く古民家であったが、間取りも随分変わって、お守りやお札が外から一目で分かる文字通りの社務所になった。

 

在りし日の石碑が境内の隅に転がっている

そういえば、当地の『しんいち歴史民族博物館』への実習としてお世話になった時分にも、横目で当社を拝観していたけども、その頃から慰霊碑などの石碑はあっただろうか。私は御朱印が書き終わるのを待つ間、石碑の方へ目をやった。今慰霊碑などの大きな石碑が幾つか無くなっている。老朽化で倒れる恐れがあるから神社の者が除けたのだろうか。後になってもう一度境内を観察したら、残る台石の反対側、境内の隅の方に幾つか斃れておった。取り壊した理由を訊いても良かったが、ちょっと複雑ながらその場を後にした。

 

上戸手駅

JR福塩線は列車の本数が少ない。確か1時間に1本か2本のペースだったと思う。呑気に1本後発の列車にしたら、寒風の中コンクリートの小さな駅舎で耐え忍ぶように待つはめになった。ウインドブレーカーなどあれば幾分マシだっただろうが、今更もう遅い。私は列車の到着を今か今かと時間を見つつ、待ちに待ってようやく新市を後にした。

 

座席の下がなんとも暖かい、今思い返しても(駅での待機は)辛い思いをしたもんだ。