杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

鳥取ひとり旅vol.1 鳥取市「鳥取東照宮」

夜行バスで米子へ、「特急まつかぜ」に乗り鳥取へ向かう

「雪の鳥取」と銘打った神社旅は、予想に反し好天に恵まれた。しかもこの時期としては暖かく、日中は10度を超えている。持参した手袋は不要だし、念願だった積雪はゼロに等しい。強いて言うなら、広い敷地のスーパーに除雪した泥まみれの雪が僅かばかり残っているだけ。ああ、私は何のために鳥取まで来たのだろうか。

 

鳥取でレンタサイクルを利用し、目的の神社を目指す

私の好物は雪である。他人から「寒い中よく行くね」と半ば呆れられるほどに多雪地帯へ赴く。冬は寒い。これだけ寒いのに雪が降らんとは何のための寒さか。温暖な瀬戸内で育った私はわざわざ雪見たさに日本海側へ出向くのである。

 

旅程の一部

さて、この鳥取も実は雪の多い所である。冬は日本海側の気候を有し、だいたい12月になるとちらつき始める。鳥取市は全国の都道府県県庁所在地のうち年間降雪量100センチ以上の西限にあたり、2017年2月には、一時90センチを超えたこともある。そんな多雪地であるから、私は当日の積雪や天候次第で行き場所を変更できるよう複数の巡拝ルートを組んだ。その中でも国重文の「鳥取東照宮」は必須。たとえ交通障害が起きようとも徒歩圏内という利便性から、また社殿の好みも相俟って足を運ぶに至った。

 

鳥取東照宮社殿 手前の拝殿・幣殿と本殿の間は連結していない

当社は慶安3(1650)年、初代鳥取藩主池田光仲(いけだみつなか)によって、日光東照宮から勧請および造営された。徳川将軍家と深いつながりを持つ池田光仲は、藩主として曾祖父家康を祀る社の造営を事業の一つとし、日光東照宮を手がけた幕府お抱えの棟梁・木原木工充藤原義久らを当たらせる、という力の入れようであった。

 

明治の世に社号が東照宮から「樗谿神社」(おうちだに)となり、これも長きに亘り用いられたが、宮号復古の気運が高まり、平成23(2011)年「鳥取東照宮」へ改称されている。

 

あくまで本社と比較してだが、意匠は乏しい

私は鳥取駅でレンタサイクルを利用し、およそ3キロの道程を経て神門を潜った。

彫刻の少ない白木の当社は、東照宮に多いきらりとした意匠は少なく、この東照宮らしからぬ社殿と往時を偲ぶ石畳の参道、それに山中の静かな環境に坐す様に妙に唆られるものがあった。本殿の周囲は石柵が一重しかなく、日光や久能山のような人工物は乏しい。造営のために周辺を整備したというより自然の中に建てた感が、いかにも地方らしく思いやしないか。というより、本社より目立たせないために環境整備を自制したか、はたまた明治以降に大きく改変したのかも知れない。

 

参道から社殿を望む

拝殿前の石垣は往時のままかきっちりと組まれ、また石段一段が高いだけに、拝殿からの眼下は想像以上の眺めであった。それにあの古めかしい石畳を歩むと、篝火の揺らめく炎とか、焼べた木の弾ける音、あたかも徳川の世にタイムスリップしたかのように想像は幾らか膨らむ。…そうして、私はぼうと佇んだりもした。

 

鳥取東照宮の入り口付近に「権現茶屋」がある 右奥に見える大きな建物は「鳥取県神社庁

神社庁の近くにある「権現茶屋」で御朱印を頂ける。ただし水曜が定休なので注意すること。と言うのも、私はたまたま定休日に当たってしまったのだ。

 

御朱印神職との語らいや帳面に染み入る毛筆もまた一興である。

そしてあの筆致を、あの蛇腹の帳面を見返すたびに、参拝の順番としての記録はもちろん、道中の苦楽をも想起する。だからなるたけ手にできるよう考えて旅程を組むのだけど、今回はご縁がなかったので、私はきっぱりと諦めるより仕様がなかった。