杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

山形ひとり旅vol.1 西置賜郡白鷹町「諏訪神社」

新庄で山形行きに乗り換える

秋田と山形に茅葺の宮があると聞いて東北へ来たけれど、本数が少ないのはともかくとして、乗り換えに1時間も掛かるなんて話は聞いてない。いつぞやか、「岩木山神社」を訪問した時もそうだ。弘前から秋田や男鹿に赴き、ひいては横手までの長距離にお尻を酷使し、発着駅にも関わらず乗り換えに暇を持て余す始末であった。

 

山形駅から徒歩1時間ほど。快活クラブで宿泊し、翌朝駅前から出るバスに乗車。
根城にする快活は何処にでもある訳ではないから、宿と神社との兼ね合いを上手く考えて廻ろうと周到に計画したのに、蓋を開けてみれば一泊二日でたったの2社。旅は悠然に、とかく急ぐものではないと思うても、1本乗り遅れば予定が総崩れしてしまう東北の旅を改めて痛感した次第である。

 

道の駅 川のみなと長井

さて、此度も奥羽本線を利用し、大曲から新庄を経て、終着の山形で前泊。翌朝駅前から出る大型バスで峠を越え、「道の駅川のみなと長井」へ着いた。山形から鉄道で行くルートも考えたが、駅前から直接現地へ行くことができれば幾分ラクだと思い、バスを選択したのである。

ここまで来ればもう目と鼻の先。道の駅でレンタサイクルを利用し、最上川沿いを北上。30分も経たずして社頭へ着く。ここ名を「諏訪神社」という。

 

諏訪神社

この地には昔、沼沢伊勢(ぬまさわいせ)という郷士がいた。江戸のはじめの頃、沼沢は新野和泉(にいのいずみ)と協力し、最上川に堰を開削し白鷹町東根地区(浅立、広野)に豊穣を与えた郷土の偉人である。

長井橋から最上川を眺める。
この反対側に諏訪堰なる水路へ至る「諏訪堰頭取工」がある。

当時は未だ開発されていない荒野が広がり、懸命に耕しても米は僅かしかできず、村人の生活は苦しかった。ここにもっと田を作り米を作ることができれば、村人の暮らしは豊かになろう。そのためには川から水を引かねばならぬ。沼沢と新野は立ち上がった。そうして最上川から水を引く方法を考えてはみたものの、なかなか良い案が浮かばない。そんな中、神の使いという狐が二人の前に現れた。そこで水路を通す場所を訊いたところ、三度鳴いて静かに歩み出し、下流の方まで行って、また鳴いては姿を消してしまった。これは神の導きである。そう信じた二人は本格的な調査を開始。途中水が土中に染み込んで思うように水が引けないといった困難があったが、慶長10(1605)年、約2年の工事の末諏訪堰の完成をみた。これにより当地の開田が進み、村人の生活が豊かになったのはもちろんのこと、人が移り住んで集落までできたという。その集落が今の広野地区である。

 

左)浅立地区  右)「沼沢伊勢之碑」後世の人々が恩に報いるため、安政2(1855)に建てた石碑。「狐伏地呼(きつねにふしてよぶ)」との名文あり。

思い返せば、代官から「多くの人とお金を要するのだから、成し得なければ磔の刑」とも言われており、それはまさに命を懸けての大事業だった。完遂後、沼沢は神恩に感謝すべく代々信仰していた諏訪神を信州から勧請し、浅立(あさだち)に社を建てた。その社こそ、私が今眼前にする「諏訪神社」なのである。

 

江戸期に建てられた社殿が現存する

拝殿・本殿ともに江戸期に建てられたものが現存し、前者には今や貴重となった茅が冠っている。本殿及び板塀が新し目なのは、令和2(2020)年の豪雨の被災後修復したためで、どこを見ても江戸期の建物とは思えぬ綺麗な社であった。近くには神仏習合の名残か鐘楼もあり、ぼうとあちこちを散策すれば1時間近くも滞在していたことにはたと気付いた。

 

間に合わぬと諦めて、のんびりフラワー長井線で帰路につく

道の駅まで戻り、レンタサイクル返却後に電車の発着を確認したら、これがもう間に合わぬ。全力疾走すればまだなんとかなるかも知れぬが、34度もの酷暑でとてもダッシュする元気はない。なら後発と探しても、当日中に高畠まで行けても、とてもじゃないが参拝までの余裕はなし。そこで米沢あたりの目ぼしい社を採ろうとも、これも乗り換え時間がネック。まだ陽は高いが、仕方なくここで旅を断念することにした。まったく恐るべし東北旅である。