杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

秋田ひとり旅vol.1 横手市「波宇志別神社神楽殿」

大曲で下車後、レンタカーを利用する

秋田という場所が東北の何処よりも他郷と思うのは、初めて出向いた場所が男鹿半島だったからかもしれない。そこで見た来訪神と思しきなまはげの何とバラエティ豊かなこと。同じ国でもこうも相違があるとは。あの当時の写真を見返すたびに想い出す。そして「なまはげ館」の図録を今でも欲している。目下、そんな私である。

 

斯様な秋田の印象で、いつかしらか文化財に指定された神社建築を調べて知り得た「波宇志別(はうしわけ)神社神楽殿」にこの度出向く機会があり、その見聞をここに記そうと思う。

 

波宇志別神社神楽殿大曲駅、または横手駅から西へ車で30分ほど。長閑な山里大森町に鎮座している。神楽殿にしては大きく、いかにも古めかしい色合いの柱がなんとも言えぬ味わいを醸し出している。それに建物の周りに翠が多いから、少し大袈裟に言えば、山深き緑の中、人知れず時を重ねてきたようなそんな風格すら持ち合わせている。

 

そんな社殿を是非とも拝みたいと昨年3月に計画したが、折角の風貌に雪囲いでは詰まらないし、緑豊かな社叢を撮りたいとも思ったから、その時は訪問を断念した。その後もなんやかんや他の神社との兼ね合いで叶わず、結局今の今までお預けとなったのだ。それが此度ようやくである。

 

私は横手ではなく、あえて大曲のレンタカーを拝借し、神楽殿を目指した。これは横手より大曲の方がレンタカーが安いからであって、別段深い理由はない。真っ直ぐに伸びる道路、湾曲した道路のいずれも交通信号は乏しく、法定速度なんてあるのかないのか。皆ビュンビュン飛ばしている。ふと信号機のない男鹿半島で地元民にあっという間に追い越されてしまったことを思い出した。

 

看板が見えた

どれぐらい経ったか、神楽殿と書かれた大きな看板が目に入った。左手に「ほろわの里資料館」、右手に鳥居が見えたと思ったら、良かったちゃんと駐車場があるではないか。鳥居の前には一抹の不安を払拭させるには十分なスペースが用意されており、運転の不慣れな私でもゆとりを持って停められたのは良かった。

 

楽殿しかないにも関わらず、単体の神社のように鳥居と参道がある

さて、それでは参ろうか。これから向かうところは神楽殿だけども、本社のように鳥居があり、その先も参道が続いている。未舗装の小径が緑を分け入るように伸び、お目当ての神楽殿は既に顔を覗かせている。木の橋には苔が纏い、この一景だけでもここへ来た甲斐があったように感じる。神橋を渡り、ここでようやく神楽殿の全貌があらわになった。

 

目前にするとより大きく見える

暫し思考を巡らせば、そうか殿が一層大きく見えるのは建物まで緩やかに高くなっているからだろうと気がついた。そして、やはり簡素である。簡素が良い。シンプルイズベストである。何が良いかって、この建物を組み上げた白木の風合をそのまま感じ取れることにある。一眼見て心を奪われるような彩色はなく、自己主張の激しい彫刻も見当たらない。しかし直径52センチもの太い柱や舟肘木の大なるもの、いずれも雄大かつ古風で、あたかも古代建築のような趣きとはよくいったものだ。

 

離れて見る神楽殿、右は江戸期に付け加えられた妻飾り

それも当然と言えば当然の話で、東北では珍しく室町後期にまで遡る古い建築である。

残念なのは、当時の棟札や古文書等の史料が現存しないために当初の姿が分からないこと。そこで平成の世に、文化財の解体修理および調査を実施したが、建立当初のほぼ確実な年代まで測定できたのは良いものの、屋根などの改造で当初の形式が判然としないことから、せいぜい江戸初期(寛永年間)までの復元が限度であった。

 

内部は広い空間が取られ、深部に厨子を備える

したがって、今私が見ている神楽殿の形式は江戸初期の姿として観察する必要がある訳だけども、寛容に見れば、江戸期の懸魚も全体を壊すほどの装飾ではないし、創建時には無かったと思しき厨子は、格子の向こう暗闇に佇み、神妙な雰囲気すら漂わせるほど神楽殿の核と相なっている。屋根のトタンも元のこけらに復旧したし、古風趣味の私にとっては良き好き景観である。

 

社頭より見る「ほろわの里資料館」

 

平成の大修理については神楽殿向かいの「ほろわの里資料館」を拝観されたし。

楽殿の歴史や解体した部材なども無料で拝観できる。