杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

山梨ひとり旅vol.1 韮崎市「武田八幡宮」

酒折甲府行きの列車に乗る

酒折(さかおり)の快活クラブで夜を明かし、ここから甲府を経由し、韮崎(にらさき)へ入った。気温は0度を下回り、久々に手袋を着けて自転車を漕いだ。韮崎駅のすぐ近くに「韮崎市民交流センターニコリ」という新しめの建物があり、観光案内所も兼ねたこの場所でレンタサイクルを利用した。

 

澄んだ空気に八ヶ岳がよく映える

寒さは堪えるが、冬の醍醐味は雪とこの澄んだ空気にある。清々しく澄み切った蒼空と山々の稜線はくっきり分かち、八ヶ岳の白い雪もはっきりと見て取れる。そんな景観を見ながら悠々と自転車を漕いでいると、町を見下ろすまでに高い所を走っていたことに気付いた。ここへ来たのもかねてより望んでいた社があったからで、近い所は攻め難し「山梨掃討作戦」と題してこれを敢行し、私は遂に「武田八幡宮」までやって来たのである。

 

武田八幡宮二の鳥居 古そうな稚児柱

当社の入り口にある二の鳥居は、いかにも古めかしく、武田信玄筆と伝わる額束の社号ですら判読困難なまでに風化している。元禄14(1701)年再建というから、当然と言えば当然な話で、見た目にも相応の古鳥居である。ただし石造ならまだしも、250年以上前の江戸期の木造というのが珍しく、また旧材を多く残している点が貴重だ。これがアスファルトでなければロケーションは最高なのだが、なんて思いつつも私はたくさん写真を撮った。武田八幡宮はこの鳥居の先突き当たりに鎮座している。

 

石垣と古鳥居は文化財の指定を受ける 両脇の巨木もまたよろしい

そしてこの社壇。石垣と鳥居の景観が素晴らしい。鳥居は普通参道に建てられるが、この鳥居は通り入るものではなく、神社の象徴としての意味合いが強い。今日でも象徴として置物を製作したり彫刻することはあっても、社の正面に石造鳥居を設置して、これに付随して、鳥居を潜らずにわざわざ石垣の左右から登壇する社壇の構成が珍しい。案の定、鳥居も石垣も文化財に指定されている。

 

室町時代に建立されたと伝わる三の鳥居

私はこの景観を観るためにここへ来たのだ。

城郭のような石垣を土台に正面の石鳥居が、ここが社であることを強く主張している。二本のどっしりとした柱はエンタシスの如く重厚な安定感がある一方で、笠木と島木は細く頼りない。だが、それがかえって他の鳥居とは明らかに異彩を放ち、当社の象徴として存在感を示している。聞けば、天正12(1584)年補修の刻があり、建立は更に数十年から百年程前の室町時代にまで遡るようだ。それだけ古ければ、古色の妙も現れよう。

 

三の鳥居から二の鳥居を望む

そういえば、当社へ参拝したものならおかしな点にお気づきかも知れない。そう、実はこの神社には二の鳥居、三の鳥居はあっても、一の鳥居が見当たらないのである。神社の案内板にも、神社のしおりにも、神社の公式ホームページにもその存在が記されていないのである。

 

本件は私と同じように不思議に思うものもいたようで、中には周囲を探してみたものの結局見つけられず仕舞いで終わったと言う人もいたそうな。私は社壇の見たさを本命とするも、この小さな謎が気がかりだったので、事前に調べて、現地で確認しようと言うのも当社へ参拝する理由の一つであった。結論から言うと、一の鳥居と思しきものは存在する。

 

あった

それは二の鳥居から境外に向かって450メートル程先、県道406号線の歩道にその鳥居はあった。だが上部の横木は無く、柱も低いため、途中で欠損していると思われる。嘉永6(1853)年と読めるが、二の鳥居との距離や鳥居の高さも考えると一の鳥居とは断言できぬ。こうなれば社務所に聞くのが一番手っ取り早いが、すぐに忘却してしまったし、鳥居の研究は学生時代に卒業したからこれ以上調べるつもりはない。

 

さて、ここからは後日譚である。この旅行記の執筆に武田八幡宮のしおりがあったことをにわかに思い出し、探したところ韮崎市の観光パンフレットからヒラリと出てきた。

おお、あったあったと…。

然れども、一緒に落ちたこれは何ぞやとめくると、これが「武田勝頼夫人願文(たけだかつよりふじんがんもん)」の資料であった。こんなものがあったなんて。実は当社には武田勝頼夫人の願文が遺されており、社務所に願い出れば願文の意訳が載った資料を頂けるのだ。戦国武将には少しも興味がなかったのだけれど、無料だし一応貰っとくかとパンフレットに挟んだままとなっていたのである。それが今手元で初めて眺めてみると、これが中々身に沁みる内容だった。

 

武田勝頼公とその夫人

武田信玄の四男、後継として甲斐国の国主となった武田勝頼は、父信玄が成せなかった遠江高天神城(とおとうみたかてんじんじょう)を攻略し、これまでで武田家最大の領地を確保するなど上々の滑り出しであった。しかしながら、天正3(1575)年の「長篠の戦い」では、織田信長及び徳川家康連合軍に大敗を喫し、重臣を失うなど、勝頼に対する評価はこの一戦から崩れていく。その後北条氏との同盟により14歳の若き後妻を得る。この後妻こそ武田八幡宮に願文を奉納した当人勝頼夫人である。ただし北条氏との同盟は長くは続かず、徳川と手を組んだ北条氏は武田にとって敵対する勢力となり、徳川から高天神城は奪取され、本拠地を現在の韮崎市新府城に移すと、重臣木曾義昌(きそよしまさ)まで謀反を働く始末。しかも織田軍へと内通し、信濃から織田軍が一気に侵攻して来た。これに天正10(1582)年2月2日、勝頼は木曽退治として新府城を出陣している。武田家が代々守護神とする武田八幡宮に夫人はこの四面楚歌の状況を伝え、どうにか武運が開けるよう切なる思いを願文に綴っている。これこそが、当社が所蔵する夫人の願文なのだが、これを一部引用しておこうと思う。

 

 

それにしても、どうして木曾義昌は、はかり知れない神のみ心にそむき、あさましくもわが父母を見殺しにして謀叛を起こしたのでしょうか。義昌の母は人質として新府の城におりましたが、わが子の謀叛のために、いくさの掟によって殺されました。

これは、義昌が自分の手で母親を殺したのと同じことであります。

殊に許し難いのは、主家から代々にわたって大恩を受けた重臣たちまでが、逆臣らと心を同じにして、たちまち謀叛をくわだてようとしています。

 

一部省略

 

いったい、わが夫の勝頼に、どうして悪い心などがありましょう。それにもかかわらず、心なき家臣どもの叛逆を知って、いきどおりの思いが炎となって天に燃え上がり、いかりの心はそれよりもいっそう深いことでしょう。

それを思いますと、妻のわたくしも同じ怒りと悲しみに、あふれる涙は止めどがありません。

 

一部省略

 

この悲しい心のうちをご照覧ください。神廬によりまて武田の家の運命が、このように窮迫するに至った今ながら、八幡大菩薩ははじめとし、武田家先祖累代の霊神がたが力をお合わせになって、勝利を勝頼一人に授けて下され、四方の怨敵が退散いたしますように。

この兵乱が転禍為福の機縁となって、夫勝頼の武運が開け、寿命も調遠となり、子孫もいよいよ繁り栄えますように。

右の大願が、神霊のご加護により成就の節は、勝頼とわたくしとが相携えて、武田八幡宮の社壇とみ垣を建て、さらに回廊をも造営し厚い神恩へのご報謝といたします。

 

境内に置かれた願文の石碑(文字は幾らか拡大)

兵は逃亡、家臣の裏切りも多く、もはや残されたものは少ない。追い詰められた勝頼は何とか夫人を逃がそうとするが、夫人は首を縦には振らず最後まで勝頼の元を離れなかったという。享年19歳、若き夫人の最後であった。

それにしても、一体どの様な思いで願文を書いたのか。それを想像しただけで涙が出てくる。

 

武田八幡宮本殿 天文10(1541)年、武田信玄公により再建された

そしてある意味これが神社の面白いところだが、武田家が滅亡しても、武田家のお祀りする神社は無くならないのである。信玄が再建した本殿は、後の徳川家・甲府藩主が補修に関わり今なお遺されているし、切なる願いも重要文化財として現存する。

 

魔除けの鬼が睨みをきかす

この地は、この神社は、一体何を見てここまで歩んで来たか。当代を生きた訳ではないけれど、神社の歴史を知り、遺された事物に触れると、たかだか30の私でも何かがひしひしと伝わってくる。そう思うと、大袈裟ではない。神社は生きた証人ではあるまいか。

 

社務所で頂いた願文の意訳資料を、私はそっとファイルに綴じた。

末長く、忘れじと…。