杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

佐賀ひとり旅vol.1 佐賀市「與止日女神社」

数年前、熊本の人と文通を開始して初めてお逢いする運びとなり九州を訪れた。そういう機会だから当然神社にも行くわけだけども、この時ばかりは爽やかなシャツとズボンに、靴はイタリアのスウェードを携行し、着け慣れぬ腕時計に化粧水と洗顔液、ワックスなど平時の神社旅にはないものを連れて私は九州へ降り立った。

 

成田から博多へ飛んで、特急かささぎで佐賀を目指す。お盆とあって券売機には10人以上も並び予定より一本後発の電車になってしまった。博多からの車窓の景観は、別段変わり映えなく過ぎ去り、初めての土地だけに県境がどこか分からず、しかし列車はひたすら進んでいる。

 

初めての佐賀へ

ふと旅の直前まで旅程に入れていた近世最大級の石造アーチ水路橋「通潤橋」とか、玉名市伊倉の「八幡宮」を思い出した。いずれもアクセスの都合上日程から省いた名所・神社であるが、全国47都道府県を目指す私にとって九州まで来て未訪問の佐賀をみすみす逃すわけにはいかず、先の名所をあえて省いて佐賀へ向かうこととした。

 

私のためを思ってか自転車には神社がプリントされている。昼食にラーメンをすする。

さて、列車が一本遅れたうえレンタサイクルの利用に手間取ったために神社への訪問がまたしても遅れてしまった。訪問前に昼食をとって正午には到着する予定が、13時を過ぎてようやく社頭に着いた。これにより、当日中に向かう予定だった肥前一宮「千栗八幡宮(ちりく)」を翌日に変更し、翌熊本市南方に鎮座する「六殿神社(ろくでん)」は断念することとなったが、何より熊本の文通相手との会食が一番だから別段問題とすることはない。そうして余裕を持って訪れたのが、肥前一宮の一つ「與止日女神社(よどひめ)」である。

 

與止日女神社 社頭

 

與止日女神社は、欽明天皇25年(西暦564年)に創始され、『日本三代実録』『延喜式』『大日本一宮記』『神社考』等に記される由緒ある古社である。嘉瀬川の川辺に坐し、境内から「川上峡(かわかみきょう)」の赤いトラス橋と「龍登園(りゅうとうえん)」と書かれたレトロなネオンが見える。淀みのない豊かな水量がこの宮の度量にも通じているようにすら感じる。そういえば、当社で祀られている與止日女命(よどひめのみこと)は、一説には神功皇后の御妹とか、またある時には竜宮城の乙姫・豊玉姫とも伝えられており、どうも判然としない。しかし佐賀に多い淀姫宮へ踏み込めたのは、かえって佐賀に来たという実感が沸いたもので私としては嬉しい限りであった。

 

この地方に多い肥前鳥居、柱が三分割なのは倒壊した際の組み立てやすさからか?

手水舎の水盤やその覆屋、狛犬の姿形に鳥居の建築様式など、他所とは一風変わった大陸風の趣に異国情緒を感じつつ境内を散策する。拝殿には「火国鎮守」と書かれた立派な扁額が掛けられている。薄暗い殿内、茶色く変色した扁額から最近の筆でないことは明らかで、それ以上に近代感溢れる書体と筆致ですぐさま能筆家だと分かった。聞けば案の定近代の著名な書家佐賀出身の副島蒼海(そえじまそうかい)だという。火の国は今でこそ熊本を指すことが多いが、昔は佐賀を指す名とも神職は語った。

 

本殿は意外と壮大

他に見るオーソドックスな社殿は近づくほどに壮大で、本殿は五間もある。さすがは一宮だなと思わずには居られない。他にも珍しく倒木にカメラを構えたり、本殿裏に回っては飛び回るトンボと戯れた。別段特筆するほどでもない境内に時間をかけたのは、後から思えばそれだけ居心地の良い場所だったからかも知れぬ。暑さも中々にもかかわらず、私はここに来るや否や休憩をせずに歩き回った。幸い手頃な休憩所やトイレがあったから良いものの、もし人里離れた所とあってはまず身の安全確保である。それは即ち水分補給と熱った身体の冷却を指すが、場所柄中々できぬこととはいえ、盛夏ゆえに一番の問題なのである。

 

休憩所 近くには自動販売機もある

私は手洗いの水を顔面にバシャバシャと気合いを入れて、自転車の電源を入れた。干からびた操作画面は頼りなくも、音は軽快である。

 

ここからまた佐賀に帰る。