杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

新潟ひとり旅vol.3 糸魚川市「天津神社・奴奈川神社」

台風一過の秋晴れだ。果てしなく広がる青い空と、眩しいほどの陽光。

バックの青が飛行機雲を際立たせている。

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境内は日陰になる場所がほとんどなく、夏の暑い時期であれば居ても立っても居られないだろう。雨水で量産されたモスキートが嫌に付きまとい、一寸たりとも止まることは許されない。そんな危険地帯であって、まくった袖を伸ばしてみても暑くて耐えられないなどということは決してなく、9月のからりとした暑さのなか、私は参道を歩いている。

 

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神橋を渡り、鳥居を抜け、暗き参道を歩むと、一気に視界が広がった。

 

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眼前に飛び込んでくるは茅を被った重厚な拝殿。そう、この景色である。山間の集落か、はたまただだっ広い田園の中にぽこりと築かれた森林に佇む、あたかもそこだけ時が止まったかのような原風景的な茅葺の建物である。もういっそのこと、日本家屋のようなという形容をしても構わない。瓦や銅板葺の多い昨今の神社の中で一際異彩を放つ茅葺建築は、永久に遺して欲しい日本情緒あふれる景観だと思っている。

 

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ついすぐにでも近づいて見たくなるが、急がず焦らず。後退りしてその全景を改めて確認し、角度を変えて撮影する。漫画のキャラクターのように目を輝かせながら見開いて、つい感激の声を漏らしてしまったような、そんな姿を自ら客観視するが、おそらく私は平時のまま、ただ単に神妙な顔つきをしてカメラを構えていて、しかし心の内は忙しなく、また感激のあまり滂沱の涙を流している。そう、この景色が見たかったのだ。

 

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安永4(1775)年築造の珍しい石舞台と拝殿

新潟は糸魚川に鎮座するここ「天津(あまつ)神社」と「奴奈川(ぬながわ)神社」は、長大な茅葺建築を有し、二社共有の拝殿として建てられている。ここまで私情をつらつらと書き連ねたが、「私はこういうポツンと一軒あるような建物より、福井の大瀧神社の方がいいと思うけど」というのは清掃中の婆の言。まさか神社建築において最も複雑な屋根を持つマニアックな社名が出るとは、とても神社に興味がない者とは思えぬ発言だけど、それ以上に茅葺建築にはあまり興味がない話を展開され、興奮気味な私のハアトを少し落ち着かせた。身近な地元民であるがゆえの、どこにでも転がっている石ころのような話である。

 

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ともあれ初めて新潟を訪れたという旅人にとっては、兼ねてより念願のお宮へ参ったと大いに満足している。昨日からの彌彦神社や居多神社の姿も書で知り得た情報以上に得るものがあり、私の旅のログとしてもここに大事に記しておきたい。

 

そうやって満ちに満ちたこの旅も終焉を迎え、どこか華々しく見送って欲しいという心情もあるように思えたが、日曜の朝、駅前にもかかわらずその姿なく、新しい駅のホームでさえ虚しく感じるほどだ。「おーい、俺は新潟を出るぞー。今、出るぞー!…」と叫んでみたところで、応えるものは何もない。

 

日常とはかけ離れた旅路に奇跡のような出来事が降って湧いて起こるわけでもなし、またそういうのに過度な期待をするまでもないだろう。無情にも定刻通り列車は来るし、何の気なしにまたいつもと変わらぬ日常が繰り返されるのだ。…還ろう。プラットホームから見える日本海もこれで見納め。次はどんな旅になろうか。何と出会すだろうか。ああ…、まったく、思案はつきぬ。