杜の中の閑話室

神社を求め、ただ一人。山へ海へ里を歩く紀行譚!

岡山ひとり旅vol.3 新見市「大佐神社」

ゆずの風味が口いっぱいに広がる高梁銘菓ゆべし 

 

バスが高梁へ着いてから、私は山田方谷(やまだほうこく)ゆかりの和菓子「ゆべし」を求めた。

幕末の備中松山藩の財政危機を助く一手として、方谷はゆべしづくりを推奨した一件がある。それにしても、列車の発車までわずか20分ほどしかないにもかかわらず、和菓子店まで片道10分掛けつつ、発送依頼までするとは我ながら中々のチャレンジャーだ。それだけに余裕はないのだけれど、店の主人が修行中というお隣の国の若い女の子は計算を間違えるし、主人も主人で私に付きっ切りで無いから計算間違いを起こすわで、挙げ句の果てに「リョーシューショ、カイテクダサイ」と来たもんだ。なんてこった。

 

高梁市街の商店街と天任堂

とかく特急に乗れるかどうか微妙なところなので、私は実家へ送る用と手元に残す分の2箱「方谷ゆべし」を購入してそそくさと店を出た。すると私も私である。

 

後ろから「オキャクサーン」と追いかけて来た。

「しまった、ゆべしっ」

 

ああ、もうグダグダ。

 

何とか間に合った

ともあれ、無事に特急へ乗り込み、新見を経由して新見市大佐(おおさ)は刑部(おさかべ)というところまで来た。大佐は幕末の陽明学者、藩政改革者、また晩年は教育者として活躍した山田方谷(1805〜1877)終焉の地である。当地には方谷の偉業を讃え「山田方谷記念館」が開設されている。私は身内から、また伯備線沿線に「山田方谷先生」と書かれた石碑を目にしていたこともあり方谷の名前は知っていたのだが、これにわざわざ数万の旅費を投じてまで訪問するは、私の好きな「旧遷喬尋常小学校」の校名を命名したのが方谷だと知るところとなり、これに更なる興味を抱いたからだ。

 

刑部駅から徒歩15分程のところに「山田方谷記念館」がある

さて、ここで方谷がどのような人物だったかざっと書いておくと、 

文化2(1805)年、現在の高梁市中井町西方で生を享けた方谷は、幼い頃から元武家である山田家の復興を願う両親に応えるかのように勉学に励んだ。当初は儒学朱子学を学んでいたが、やがて疑問を抱くようになり、遊学中に読んだ王陽明の「伝習録」(でんしゅうろく)に傾倒。これこそ真の学問として佐藤一斎(さとういっさい)塾で陽明学を学ぶ。その後、窮乏極まる藩財政の立て直しとして上下倹約、負債整理、産業振興、藩札刷新、民政刷新、軍政改革等藩政改革に取り組み、わずか8年で10万両の借財を返し、更に10万両を蓄財するという業績は、後にも先にも方谷の名を知らしめる偉業となった。明治維新後は明治政府からの度重なる出仕要請を固辞し、明治9(1876)年病に伏せるまで、子弟の教育に専念したという。

山田方谷wikipedia引用)と終焉の地を知らせるポスター 

以上はあくまで辞典的な経歴だが、人との交わりや晩年の過ごし方(一人の人間としての最期)などにフォーカスすると偉人としてだけでなく人の生き方についても感慨深い展示となっている。他方方谷が4歳の時に書いた手形入り板額も注目に値する。母かじが横について「ここに手を押して」とか言って、方谷が手をぺっとやったのだろうことを想うと何とも微笑ましいではないか。そしてこの板額が奉納された神社というのが、私が今回訪れる「大佐神社」なのである。それにしても参道が好きで旅程に入れた神社が方谷とも縁があったなんて、不思議なご縁だ。

 

大佐神社 社頭

大佐神社は最寄りの刑部駅から歩いて15分程のところにある。

鬱蒼とした社頭と木製の古びた鳥居が自然に溶け込み、道路脇から逸れ行く参道があたかも異世界に通じているかのようだ。その木立も随身門を潜るとややまばらになり、しかしおそらく上空から見るとしっかり繁茂しているのだろう。足元には大きな影を作っていた。少しの風でも揺れることなく、長き暗い参道が続いている。これに対比して、参道の先には眩いほどの日光を燦々と受け輝く大佐の社殿。まるで前途に光明があるかの如く、前進を促しているような一景がそこにはあった。

 

光明の指す大佐神社へ

延暦3(784)年、九州は肥後阿蘇神社より祀神を勧請したと伝えられ、社号を大阿蘇大明神という。一宮から全国に勧請した例は珍しくないが、何か自分の性情と合致するところがあったのか、妙に特異で、また何かに満ち行く感じを受ける。

方谷が伏した枕のあった場所にオベリスクが建てられている

刑部駅で津山行き電車が来るまでの2時間半、饅頭を口にしながら方谷が伏した枕の場所に建てられたというオベリスクを想起したり、今回未訪問となってしまった美作追分の「熊野神社」の景観に想いを馳せたり。思えば、一年に12回しか上京しない岡山の旧友は、私と入れ違いに東京へ出向き、警報級の大雨で東京駅で足止めを食らっているらしい。一方の私はといえば、秋晴れの岡山で神社を散策。面白いほどに私が東京を出ている間だけ大雨だから、何だか天候が味方してくれているように思えてならない。時には雨の中の神社なんてのも良いのだろうが。

 

刑部駅にてひたすら列車を待つ

しばらくすると、安来節のお稽古の帰りだという老婆が現れ、私が迷って選ばなかった方の饅頭を片手に「お兄ちゃん、これ食べな」と渡してきた。何の偶然だか知らねども、こんなこともあるもんかとありがたく頂戴し、身の上話などぺちゃくちゃおしゃべりしたもんだが、それにしても電車の待ち時間が2時間半とは幾ら何でも長すぎた。方谷記念館の館長が言っていた「もう廃線になるよ」という言葉が今になって繰り返し聞こえてくる。

ああ、これから津山へ行って、今度は高速バスが来るまで何時間待つのだろうか。

 

老婆から手にした饅頭

じっとしていると寒さが身に沁みる、そんな秋夜の町津山であった。