空高く、山々の緑は明暗を分かち、気づけば、人界の大地にも深い影を落としている。
愛用のサックを傍に、窓枠に片肘をついて、車窓から過ぎゆく多可町の景色を眺めながら回想に耽った。ああ、今日も良い旅だった。
兵庫は多可郡多可町というところに「青玉神社」という宮がある。私は宮脇市駅からバスで1時間ほど揺られつつ「杉原紙の里」までやってきた。神社の向かいには道の駅があり、駐車が容易なのは言わずもがな。バイクのツーリングや家族連れ、休憩とばかり立ち寄った道の駅から入域する者後絶たず、道の駅の存在は神社にとっても少なからず恩恵を受けているようだ。
社名から玉を持った青龍の姿を勝手に想像したが、そういう世俗的なものは一切なく、せいぜい神池に玉があるぐらいで境内は清浄そのもの。杉の木立は天に向かいすっくと立ち、神域に立ち入る参拝者もつい襟を正したくなるようなそんな静謐さに満ちている。
ちなみに社名の青玉とは、この社に祀る祀神「天目一箇命(あまのまひとつのみこと)」が青い瞳をした独眼だったので、これが社名の由来となったそうだ。当初は三国岳の山頂に鍛治業の神徳を以て祀られていた当社も、いつぞや奉斎の便宜からか現在地へ遷座し、この地の氏神として祀られている。おそらく樹齢数百年から約千年と推定される大杉があったので(当時は大樹ではなかったけれど)、ここが遷座地の候補として白羽の矢が立ったのだろう。
さて、白木の鳥居を入り口に私は社前までまっすぐに伸びた参道を静かに歩んだ。
掃き清められた正中は随神門跡と思しき所まで続き、左右遠くまで見渡せる幾多もの杉の木が軽やかな印象を受ける。参道と交差する神池はピチャピチャと音を立て、静かなりにも動の変化がつけられている。そしてこの辺りからだ。樹齢数百年の大杉に圧倒されるのは。漏斗をひっくり返したような根本。幹周りの太さ。空を突くよな大樹は直立不動を堅持し、見るものをあっと言わせるような圧倒的存在感を放っている。その姿と比し、我々人間などいかにちっぽけなものか。
社殿向かって左方奥に聳える夫婦杉は樹齢千年と言われ、高さ8メートル付近で二つに分かつ。どの杉の木も、神木たりうる存在感を放ち、直立した両杉の間に立てられた幟もこの時季ならではのアクセントとなっていた。
バスの時間まであと1時間半ほどあり、私は杉原紙の和紙小物を販売する「紙匠庵(ししょうあん)でんでん」を覗いたり、隣接する「和紙博物館」を見学した。
杉原紙はこの地ですかれている和紙の名で、7世紀後半から作られたと推定される大変歴史ある紙だ。播磨国は元来製紙業の盛んな所だったらしい。奈良時代には祝儀贈答用の一級品として、鎌倉期には幕府の公用紙として使用されるなど、その品質に定評があった。時代が下ると、もはや紙の一般名詞とばかり「〇〇産杉原紙」と銘打った和紙が全国でもすかれ、庶民にも普及するようになった。ところが明治維新後の産業転換があらゆる産業に影響を与えたように、機械の技術や輸入紙の普及は、製紙業にとっても根底を揺るがす事態となった。言わずもがな、杉原紙は衰退の一途をたどり、細々とすかれていた杉原谷も大正末長い歴史に終止符を打ったのである。
そんなこんな、「和紙博物館」のガイドから私は熱烈な指導を受けた。熱烈というのは大袈裟だが、私が全国の神社を廻るために東京から来たことや、播磨国一宮「伊和神社」へ訪問すること、また私が寿岳文章氏について興味深そうに聞くもんだから、ガイドの人にも熱が入ったのだろう。
大正以降に杉原紙が再生した経緯なども細かに教えてくれたものだった。ただ当の本人(私)は話についていけず、幼い頃から書道に親しんできた身にとっては自分の無知を恥ずかしくも感じたものだ。それよりも、杉原紙再生の発端となった和紙研究科・寿岳文章氏の人となりが気になった。氏は長年全国の和紙のすきどころを巡りにめぐって、全国にある杉原紙の発祥がここ多可町と初めて明確にした研究者である。その膨大な資料もまた興味深く、元は英文学者の氏がどういう経緯で和紙の収集に至ったのか、私にとっては和紙よりも殊更興味深く映るのであった。
さて、ここまで付き添いで案内してくれたガイドは、明日私が「伊和神社」を訪れることを知って、「ここまで来たんなら三宮も見て欲しいなあ」とかもどかしそうに言っている。「また来ますから」私はそう言って別れたはずなのに、後から車で追いかけてきて、「(鳥羽上の)バス停はそこだから」と指差し、後ろからクラクションを鳴らされているにもかかわらず、最後まで気にかけてくれることに複雑な心境にもありがたく感じたものだ。
…時間いっぱいですか。私はバスの時刻表を見ながら、リュックの重さを感じないほどに充足している。しもから来た山寄上行きのバスはかみまで行って、またこちらへやって来た。
「お兄ちゃん、どこから来たん?」
こんな山間の停車場に、大きなリュックを背負って一人突っ立っているのが気になったのか、バスの運転手が声をかけてきた。
「あー東京です。全国の神社を廻るのが好きで、さっきもそこの『青玉神社』へ行ってきたんですよ」
「東京から来て見るもんなんかあるかなあ」
「あっ、木!大きな木があるんですよ!」
何のために来たのかなんて、とっさに応えられない。強いて言えば神社が好きってことだけど、私は「青玉神社」へ参拝する理由なんてそんなとっさに答えられるほど明確なものは何一つ頭になかったのだ。
バスの運転手は怪訝そうなというか何と言おうか、どっちつかずの平凡な顔で、モップをじゃぶじゃぶ洗っている。
「神社があるのは知っとるけど…」
「まあ、大体そんなもんですよね。私四国の香川出身なんですけど、地元に何があるか言われても、よく分からんですもん」
「(バスが発車するまで)ちょっと待っとってな」
そう言って暫し姿を眩ましたかと思えば、またどこからともなく現れ、広々とした車庫の中、ヤンキー座りで煙草を吹かしている。
「四国は、こんぴらさんに行ったけどな。連れと四国一周(ヒッチハイク)した時に行ったんやけど、もうその連れも居らんようになったわ」
「それ、いつの話ですか?」
「50年ぐらい前かな。高校1年か2年の時、よう怒られたわ。タダ乗りすな言うて…。」
こんな談笑がバスに乗ってからも続いた。普段バスの運転手とこんな話をすることなんてないから、西脇市駅までの1時間、参拝後の疲労感に普段熟睡する私がこの時は珍しく終点まで起きていた。来月の宮崎訪問や「伊和神社」のこと、多可町のお祭りが3年ぶりに復活したこと、お仕事のことなど話題は尽きぬ…。60の人が見た30の私など、子どもみたいなもんだろうか。座席から背もたれに腕を回し、前方を見つめながら話す私など、きっと子どものような眼でキラつかせていたに違いない。
空高く、山々の緑は明暗を分かち、気づけば、夜の帳が下りている。
「じゃあ、気をつけてね」運転手はそう言って、私もまた別れを告げた。
田舎とはそういうものだろうか。
そういうものか。