雄山神社は日本三霊山の一つ立山を霊場として雄山頂上の「峰本社(みねほんしゃ)」と、中宮の「中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)」下宮の「前立社壇(まえたてしゃだん)」の三社で構成された神社である。古くは万葉集にも記されており、文武天皇(もんむ)の世(大宝元(701)年)に佐伯有頼公(さえきありより)が開山して以来、神仏習合の一大霊場として、皇室をはじめ武将名門の崇敬を受けた。
歴史を顧みると、豊臣秀吉による焼き討ちや神仏判然令に伴う廃仏毀釈など、多くの諸堂を失う憂き目を見たが、樹齢500年にもなる立山杉がこの地の歩みを物語るように境内は神気に満ち満ちている。
そして「中宮祈願殿」という名称がまた厳かに、個人的にはかなり好みである。今までに「出羽神社三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」や「宇佐神宮頓宮(とんぐう)」といった名称とも出くわしたが、中宮はそれ以上にタイプだ。前の二社は社殿の名だが。
そんな重厚さにも惹かれた私は四国への帰省の最中、東京から北陸を経由するという盛大な遠回りをして、ここ雄山神社中宮祈願殿を訪れるに至った。地面には苔が生え、朝の日差しを受ける楓の葉が柔な影を参道に作っている。まるで門番のように正面から睨みを効かす祀神の眷属。その姿「無禮を爲すことを固く禁制す」という社頭の由緒に見る文言を体現したようにすら感じる。とかく、静謐な環境を穢さぬよう静かに参ろうではないか。
そんな時背後からザックザックと早歩きでこちらへ向かってくる者あり。
中高年の男が元気よく挨拶をしてきたので、私も応えて、東京から夜行バスで来たことや、御朱印のことなど一言二言言葉を交わした。後で分かったが、この男性は神職らしく、祈願殿で朝拝があり御朱印はその後ならと承諾してくれた。誘われるままに私はかつて大講堂と呼ばれた祈願殿へ入り、襟をただして着座した。
「4月29日、今から朝拝を始めます」
先ほどまでの私服はどこへいったのか。服装が変わると打って変わって、神事を行なうユニフォームがその場の空気も、また私の心もより引き締めた。
「祓え!祓え!祓え!」
目を瞑り低頭する私の背後で、神職の力強い声と大幣を振る音がバッサバッサと聞こえてくる。
「祓え!祓え!祓え!」
神事において「祓え!」なんて発する神職を私は見たことも聞いたこともなかった。厳粛な雰囲気の中「祓い給え」とか「清め給え」といったフレーズが神事のイメージとしてあったので、あの発声には心底驚いたし、その意外性につい「ふふっ」吹き出しそうになり、私は笑いを必死に堪えた。
そういえば神事を始める前、「今日は昭和の日で神輿が出る」とか慌ただしく言っていたような。もしかすると、忙しいので神事を簡略化したのだろうか、なんて考えたりもしたが、開始時とのギャップが凄まじく印象に残るそんな私の朝拝であった。
御朱印帳を2冊渡したところ、神職は幾らか不快感をあらわにした。実は以前5冊依頼してきた参拝者がいて、一度の参拝に5冊分(書くの)はおかしいと断ったそうな。
しかし、「うーん、まあいいでしょう」
神職はそう言って、私の御朱印帳を2冊受け取った。5冊と2冊の違いもあろうが、ひょっとするとそれまでの私の言動を観て承諾したのかも知れない。また他方で私が神事や御朱印を受ける姿勢に神職は足を崩すよう促し、神道の胡座の歴史や峰本社への行き方など細かに教えて頂いた。殊に高山病に関して「登山前(移動中)には寝ないように」との助言も受けたので、今後峰本社を目指す私にとって諸々ためになる話であった。
神職は私が「千垣(ちがき)」から歩いてきたことを知って、「東京の人だから大したことない」とは言いつつもわざわざバスの時間を調べてくれた。私は帰り道も徒歩で旅程を組んでいたから特に傾聴しなかったけれど、何の気無しにバス停の時刻表を見てみたら、あと10分でバスが来ることを知り、この機に乗じ中宮を後にした。バスといっても姿形はワンボックスカーである。そしてまさか町営のコミュニティバスが図った訳ではないだろうが、バスが千垣へ到着してすぐ列車が来たのである。1時間に1本のダイヤをものともせず、これがあの「祓え!」の効力かとテキトーな因果を描きつつ、合理的な思考を排して自然に身を任せた。
私を乗せた列車は「岩峅寺(いわくらじ)」へと向かっている。